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北畠家(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、公家の一つ。村上源氏中院家庶流。南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大名、戦国大名として戦国時代まで命脈を保った。なお、明治維新後、北畠家の家名は中院流久我家の分家として再興され、男爵に叙されている。 == 歴史 == === 鎌倉・室町時代 === 中院家の家祖通方の子、雅家が洛北の北畠(現在の京都御苑北部)に移ったことから「北畠」を称し、代々和漢の学をもって仕えた。 鎌倉時代末期に北畠親房が出て、後醍醐天皇の建武の新政を支え、後醍醐没後には南朝の軍事的指導者となり、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を記した。親房の長男北畠顕家は、父とともに義良親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州鎮定に赴き、建武政権から離反した足利尊氏を京都から追い、次弟の北畠顕信とともに南朝勢力として足利方と戦った。 親房の三男北畠顕能は伊勢国司となり、以後の北畠家宗家は伊勢に定着した。室町時代に入っても伊勢で独自の勢力を持ち、その支配形態は国司体制を維持するいわば公家大名というべきようなものであった。 南北朝合一後、明徳の和約が守られず北朝系によって天皇位が独占されるようになった事に反発し、北畠満雅が室町幕府に対して挙兵した。一度は和睦したが、嗣子のなかった称光天皇が崩御した際も北朝傍流の後花園天皇が後継に選ばれたため、小倉宮聖承を担いで再び反乱を起こしたが、幕府の大軍に攻められ1429年(正長元年)安濃郡岩田にて討ち死にした。 1441年(嘉吉元年)足利義教が暗殺された嘉吉の乱が起きると、首謀者の1人で縁戚関係にある赤松教康が国司北畠教具を頼ってきたが、保護を拒否して自害させ、幕府への恭順を示している。 1467年(応仁元年)の応仁の乱では、戦火を逃れて伊勢にやってきた足利義視を保護している。北畠家は東軍方に付いたが、洛中の戦闘には参加していない。 伊勢北畠氏からは大河内氏、木造氏、坂内氏、田丸氏、星合氏、岩内氏、藤方氏、波瀬氏の諸氏が分かれ出て、それぞれ御所と称された。木造御所は北畠庶流の筆頭であったが、木造御所の官位は北畠宗家・多芸御所を上回ることもあり、度々宗家と対立した。その為、田丸御所・坂内御所・大河内御所の三家が北畠三御所となり、なかでも大河内氏は筆頭とされ、宗家が絶えたときは、これを継ぐ立場にあった。 また、奥州・津軽には、北畠顕家の子孫説や北畠顕信の子孫説、または顕家(又は顕信)の子孫が入婿となったとされる北畠庶流が浪岡御所として存続していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北畠家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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