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北畠満雅 : ウィキペディア日本語版
北畠満雅[きたばたけ みつまさ]

北畠 満雅(きたばたけ みつまさ)は、室町時代前期の武将伊勢国司北畠家の第3代当主。北畠顕泰の次男。
== 生涯 ==
元服時に室町幕府第3代将軍足利義満から偏諱を賜い満雅と名乗る(これは義満が子の義持に将軍職を譲る応永元年(1394年)までに済ませているであろう)。
同じく義満から1字を賜った長兄の北畠満泰(- みつやす)は応永6年(1399年)の応永の乱に幕府側の山名時煕軍に加勢する形で参戦したが、激闘の中で戦死。これに伴って、戦後代わって嫡男(跡取り)となる。父・顕泰から北畠家の家督を譲られたのはこれより間もなく、応永9年(1402年)前後のこととされている。
皇統が明徳の和約に反し、持明院統から大覚寺統に譲られないことを不服とし、応永21年(1414年)、幕府に条件履行を迫って伊勢で挙兵、幕府方の城や足利方についた北畠一族の木造俊康を攻め落とした。そして坂内雅俊(まさとし、木造俊康の実弟、坂内氏初代)を木造城に、実弟・顕雅(初代大河内氏)を大河内城に入れ、玉丸城・多気城・坂内城にも一族を配し、満雅自身は阿坂城に入る。
応永22年(1415年)4月、この挙兵に対し第4代将軍足利義持は、土岐持益を大将とし伊勢に侵攻、阿坂城まで迫る。しかし、これを攻め落とすことができず、8月に後亀山法皇の仲介のもとに和睦した。
ところが応永35年(1428年)8月、称光天皇が崩御して持明院統の嫡流が断絶すると、同年1月に第6代目の将軍に就任した義持の弟・足利義教は、前もって後小松上皇と謀り、持明院統の伏見宮家から彦仁王が践祚され、永享元年(1429年)12月27日、天皇に即位した(後花園天皇)。これに不満を持った後亀山法皇の孫・小倉宮聖承は満雅を頼り、居所の嵯峨から逃亡した。満雅はこの当時幕府と対立していた鎌倉公方足利持氏と連合し、小倉宮を推戴して反乱を起こすが、これに激怒した義教により派遣された伊勢守護土岐持頼世保家)率いる幕府軍に攻められる。北畠勢は雲出川において幕府軍を大破・敗走させるが、更には土岐持益・長野満高赤松満祐山名宗全らが派遣され、満雅は伊勢阿濃郡岩田の戦いで討ち死にした。
この戦いで北畠家は一志郡飯高郡を失い、それぞれ長野満高、土岐持頼に与えられた。満雅が戦死したとき、子の教具はまだ7歳であった為、実弟の大河内顕雅が職務を代行し、北畠家を存続させた。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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