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北畠顕能 : ウィキペディア日本語版
北畠顕能[きたばたけ あきよし]

北畠 顕能(きたばたけ あきよし)は、南北朝時代公卿武将准三后北畠親房の三男で、顕家顕信の弟とするのが通説だが、一説には中院貞平の子で、親房の養子になったともいう〔 「北畠系図」(『諸家系図纂』・『続群書類従5輯下』所収)〕。建武政権期に父兄とともに伊勢国へ下り、同国司に任じられた後、多気を拠点に退勢著しい南朝軍事力の支柱として武家方に対抗した。伊勢北畠氏の祖。
== 経歴 ==

===多気入城===

伊勢国司の由来については確実な史料がないが、延元元年/建武3年(1336年)10月親房顕信に従って伊勢へ下向した後、度会家行の援助で玉丸城を築き、延元3年/建武5年(1338年)閏7月従四位上伊勢守に叙任されたとみられる。同年9月東国に向けて出航した親房・顕信の委任を受け、玉丸城に本拠を置いて伊勢経営の大任を負った。延元4年/暦応2年(1339年)8月伊勢守護高師秋が前線の神山城に攻撃を加えるが、翌月愛洲氏らとともに立利縄手でこれと戦って撃退する。興国2年/暦応4年(1341年佐々木高氏の協力を得た師秋が攻撃を再開すると、加藤定有らが奮闘して防戦に努めたが、翌興国3年/康永元年(1342年)7月さらに仁木義長も師秋に加勢したため、南軍の戦況は次第に不利となり、8月玉丸城などの諸城が陥落。間もなく顕能は一志郡多気の地へ退居のやむ無きに至った。正平2年/貞和3年(1347年)秋には、河内楠木正行と連携して南朝勢の回復を図るも、翌年に正行が戦死して作戦は失敗に帰している〔『伊勢之巻』によれば、同年(1348年)の賀名生行宮造営に際して伊勢から多くの材木・番匠を送り、その功によって従三位に叙されたという。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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