|
北越戦争(ほくえつせんそう)は、戊辰戦争の局面のひとつとして長岡藩(現・新潟県長岡市)周辺地域で行われた一連の戦闘の総称である。 == 背景 == 慶応4年(1868年)、薩摩藩・長州藩を中核とする明治新政府軍は京都近郊での鳥羽・伏見の戦いに勝利し、東征軍を組織して東海道・東山道・北陸道に分かれ進軍した。北陸道の新政府軍は北陸道鎮撫総督府の山縣有朋と黒田清隆を指揮官としていた。新政府軍は越後における旧幕府軍の平定と会津藩征討のため、長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)を占領した。 長岡藩は、大政奉還以後も徳川家を支持し、長岡藩主・牧野忠訓と家老上席、軍事総督・河井継之助のもと、イギリス人の武器商人のウォーター、ファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)、スネル兄弟などからアームストロング砲とガトリング砲とイギリス製の2,000挺のエンフィールド銃・スナイドル銃などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。ちなみにガトリング砲は当時日本に3つしかなく、その内の1つを継之助が持っていた。〔長岡藩が輸入された火器を購入したのは、横浜のイギリス人の武器商人のウォーターともファーブル・ブラント商会ともスネル兄弟とも言われている。 実際にどのような兵器を購入していたのかについて、現在残っている公文書中の記録には下記のように記されている。 陸軍省大日記 「大日記 壬申 3月 諸省府県之部己」 陸軍省 明治5年3月 「三月廿七日 土曜 第三百八十二号 元長岡藩兵器処分伺 長岡藩被廃候仰兵器ハ兵部省ヘ可差出旨従太政官御達相成之柏崎県新庄権知事上京之砌右差出方同省ヘ相伺候処当分其侭可差置旨御差図ニ付今日迄差置候然ル処当節諸廃県兵器夫々新発田ヨリ営ヘ輸送可致ニ付右之長岡藩兵器モ同様同営ヘ輸送仕度仍テ目録相添此段相伺候以上 壬申三月廿七日 柏崎県参時馬伏断三 陸軍省御中 伺之通 三月廿八日 別紙 記 一ミニール銃 百五拾挺~」 この記録はここで途切れているが、ミニエー銃を装備していたことまでは確実なようである。 当時の日本ではミニエー銃と言っても本家のフランス製ではなく、ミニエ式弾丸を使用し南北戦争の終結で大量に払い下げられたイギリス製のエンフィールド銃だったと考えて良い。 一部には、やはりミニエ式弾丸を使用する米国製のスプリングフィールド銃と主張する研究者もいるが、これを裏付ける公的な記録は何もなく、スプリングフィールド銃は南北戦争が終了しても北軍(連邦軍)の制式小銃だったので、民間に払い下げられなかった。 〕 新政府軍が会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、門閥家老・稲垣平助、先法家・槙(真木)内蔵介以下、上士の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。 こうした中で継之助は恭順派の拠点となっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えてモンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を申し出ることとした。 会津藩は佐川官兵衛を使者として長岡藩に奥羽列藩同盟への参加を申し入れるが、河井は同盟への参加を拒んだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北越戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|