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匪徒刑罰令[ひとけいばつれい] 匪徒刑罰令(ひとけいばつれい)とは、日本統治下の台湾において台湾総督府により1898年(明治31年)11月5日に発布(律令第24号)〔『官報』第4616号、明治31年11月17日。〕された、日本に反抗する「土匪」、「匪徒」を処罰するための刑罰法規である。
== 背景 == 日本による台湾の領有に対し、台湾人からは激しい抵抗が起きた。これに対し児玉源太郎総督(1898年2月26日着任)、後藤新平民政長官(1898年3月2日着任)は、近代的都市整備、鉄道、水道、電気事業等のインフラ整備を進め支配力を強化する一方、「土匪」に対する徹底的な弾圧で臨むべく、警察力の強化を図っていた。台湾の警察力は著しく拡大され、警察力は地方の隅々まで浸透し、警察の電話網も整備された。1898年8月31日には「保甲条例」が制定され、保甲制度が開始された〔『台湾‐四百年の歴史と展望』86ページ。〕。保甲制度とは、清朝統治時代から続いてきた制度であるが、日本による台湾統治の制度として活用され、元来住民の自治組織であったものが、警察官の指揮命令を受ける警察下部組織として、のちに行政補助機関として活用されたものである〔『帝国主義下の台湾』174ページ〕。この保甲制度によって警察の管轄下における連座制、相互監視、密告が制度化され、匪徒の鎮圧に大きな力となっていった〔『台湾‐四百年の歴史と展望』87ページ〕。さらに児玉・後藤の総督府は、抵抗運動に対して徹底的な弾圧策をとった。そもそも児玉・後藤の基本方針は、台湾の実情を理由に「特別統治」の重要性を強調する「植民地主義」であった。「植民地主義」は、台湾を日本本国とは政治的および法制度上の別の統治領域とみなし、台湾の住民には本国人と異なる法および統治制度を適用すべしとする差別化の政策を意味する。本律令は、本国刑法に比べ苛酷な植民地統治の内実を象徴するものである。同じように本国刑法に比べ苛酷な刑罰律令の例として、「罰金及笞刑処分例」(明治37年律令第1号)がある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「匪徒刑罰令」の詳細全文を読む
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