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十勝国(とかちのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。道東に位置し、領域は現在の十勝総合振興局管内から足寄郡の大半(足寄町のうち合併前の旧足寄村に属する利別川以東及び陸別町)を除いた部分にあたる。アイヌ語で乳を意味する「トカプチ」が語源と言われ、十勝川の河口が乳房のように二つに分かれていたのが由来とされている。〔十勝総合振興局 十勝の概要 〕 ==沿革== ここでは十勝国成立までについても記述する。 鎌倉時代から室町時代にかけて、蝦夷沙汰職・蝦夷管領は、北海道太平洋岸におり日の本と呼ばれる蝦夷(えぞ)を統括していた。 江戸時代、松前藩によって場所と呼ばれる知行地が開かれ松前藩家臣と蝦夷との交易が行われた。制度的な詳細は商場(場所)知行制および場所請負制を参照されたい。十勝国域にはトカチ場所が開かれていた。 江戸時代から明治時代初頭の交通について、陸上交通は、渡島国の箱館から千島国方面に至る道(沿岸部の広尾郡から十勝郡東端まで国道336号の前身、釧路国との国境付近からは国道38号の前身)の途上であったが、一部地形が険しい難所があったため、寛政10年幕吏近藤重蔵によって広尾郡の西隅にあたるビタタヌンケとルベシベツの間2里(7.9km)にルベシベツ山道が開削された。十勝神社には、重蔵の従者下野源助が山道開削について記録し、蝦夷が作った碑文が奉納されたが、この碑文は現在、広尾町タニイソトンネル北側坑口の海側に立つ碑で見ることができる。また十勝国内の河川には藩政時代から廃使置県までの間6箇所の渡船場数があり渡し船なども運行されていた。 江戸時代初期の寛文9年6月、日高国域を中心に蝦夷が蜂起したシャクシャインの戦いによって十勝国域内でも和人が殺された。また、蝦夷(アイヌ)同士による戦いも行われており、今から二百年ほど前に十勝に侵入した北見アイヌ(または日高アイヌ)と十勝アイヌの戦いがチョマトー(河西郡域、現帯広市)で行われたという伝説がある。また、蝦夷の人々の間では古くから芽登温泉が知られていたという。 江戸時代後期、十勝国域は東蝦夷地に属していた。国防のため寛政11年東蝦夷地は公議御料(幕府直轄領)とされたが、文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び公議御料となり仙台藩が警固を担当した。その他、安政4年には上川郡域で十勝岳が噴火(安政噴火)。安政6年には6藩分領で十勝国を領国に加えた仙台藩によって広尾に出張陣屋のひとつトカチ陣屋が築城されている。 *明治2年(1869年)8月15日に十勝国7郡が制定され、51村が属した。また、同年7月から明治4年(1871年)8月の廃藩置県まで道外の藩と華族によって分領支配される。 *明治15年(1882年)2月8日、廃使置県にともない札幌県の所管となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「十勝国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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