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十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月4日 - 1989年(昭和64年) 1月7日 )は、日本の歴史学者。専門は、西洋近世史。 ==人物== 香川県高松市出身。生家は旧高松藩の御用商人を務めた旧家の次男として生まれる。その祖先は中世讃岐国を治めた十河城城主である十河氏と伝えられている。父の忠貞(襲名権三郎)は、中川愛山に学んだ画人でもあり自由民権運動団体「博文社」の会頭の一人でもあった。また、元高松市会議員の兄も権三郎を襲名した。佑貞の長女・道子は、岩倉具視の曾孫で大日本帝国陸軍飛行第244戦隊第2中隊長を務めた岩倉具邦に嫁いだ。 郷里の高松中学時代は、1歳で父親を癌で亡くしたこともあり、身体を鍛えるために海水浴、武徳会での柔道、ボートなど勉強そっちのけで遊んだという。不勉強がたたり浪人を強いられたが、方丈記、徒然草、夏目漱石を耽読し勉強に気が入らなかったという。 2年間の浪人の末、早稲田大学予科の文学科に入学した。当初文学を学ぶつもりでいたが、箕作元八、大類伸などの西洋史関係の書物を読み、西洋史研究に志望が変わった。これには、漢文購読の山口剛および西洋史概論の原随園から受けた示唆も非常に大きかったようである。また、当時大学教授であった煙山専太郎の誠実な人柄に強く打たれ大学での西洋史専攻を決心したという。学問は知識のひけらかしよりも、結局はその人の人格だという実感が、十河を感動させたのである。 大学入学後、当時の史学科は学生数より教員の数の方が多い位の恵まれた環境にあり、歴史専攻での同級生は十河の他2名(日本史専攻の田中友次郎、後の東洋史学者・出石誠彦(いずしよしひこ))のみであった。そのため2人が欠席した時の講義は教員1人学生1人ということもあったという。 1922年(大正11年)大学3年生で23歳の時に結婚。 大学卒業後早稲田中学校では、当時臨時講師であり後に立教大学に史学科を創立する小林秀雄(文芸評論家の小林秀雄は同姓同名)と親しくなり、そのことがきっかけで後に立教大学に移ることとなる。しかし、その後戦争による時代の混乱により立教大学での職を解かれることとなった。 早稲田大学に移り、専門について当時この分野では殆ど唯一の権威ある著作として「フランス革命とドイツ思想」を上梓し、専門以外にも「早慶連合史学会」の運営に尽力し、早慶両大学の発展に貢献した。 また、戦時中のエピソードとして、勤労奉仕で学生(予科生)を汽車会社に連れて行っていたが、3月10日までの契約だったのを、学生から試験があるので2月末で切り上げたいという要望があったため会社から許可をもらったところ、結果として3月10日の東京大空襲を免れることとなり十河と学生全員が助かることとなった。汽車会社の方は空襲で丸焼けだったという。 早稲田大学を定年退職した後、東海大学史学科が大学院を設置するに伴い教授として迎えられた。 1989年(昭和64年)昭和天皇とほぼ同日時である1月7日朝、肺炎のため死去、90歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「十河佑貞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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