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千人壷(せんにんつぼ、千人壺)は、島根県大田市大森町三石谷山奥の雑木林(石見銀山・史跡)にある井戸のような形をした墓穴。大田市の指定文化財〔島根県内の市町村指定文化財一覧 〕。所有者は羅漢寺。 石見銀山処刑場と同様に役所は管理放棄しているため観光地の間歩とは対照的に雑草が生い茂り看板は倒れ複数の処刑された方の墓石も朽ち果てている。 「南無阿弥陀仏の石碑」、「三界万霊の石碑」〔この世の事象だけでなく時空(未来・現在・過去)を超えたありとあらゆる霊を合祀するという意味が込められている。〕その他、数個の墓石とともに潔く処罰を受け、ここに葬られた二十山弥四郎を畏敬する辞世の句碑がある。〔1784年、死刑執行人が石見銀山奉行(代官)に頼み特別に句碑を納める許しを得て建てたと記録されている。酒に溺れて悪行三昧ではあったが、死を持って償うことを潔く受け入れたことに死刑執行人が感銘を受け石碑を建立した。この時代、死罪の人間に墓石を建立することは極めて異例のことであった。〕 == 概要 == 銀山の銀を盗むなどして処刑された罪人の遺体や回復の見込みのない病人、伝染病が疑われる重篤患者、事故死した身寄りのない銀山労働者などもこの穴に放り込んだと言い伝えられている。 数え切れないほどの遺体を放り込んだため"千人"と呼ばれていた。 罪人は石見銀山処刑場で処刑された後、五百羅漢〔五百羅漢の石仏は銀山の過酷な労働でなくなった方だけでなく処刑された人の霊を慰めるために作られたものとも言われる。〕水路で船を使って遺体を運ばれたといわれている。 江戸時代、司法制度もない時代で無実の人も多く処刑されたと言い伝えられている。 その反省から明治時代に入って地元大森の住人が建物に要する資材・土地を無償提供して大森に裁判所(旧大森区裁判所)が設けられることとなり公正公明な裁きを村人は願った。〔現在は町並み交流センターとなり当時の法廷の様子がマネキンで再現されている。展示室では、司法制度、石見銀山の歴史と暮らしを紹介した資料映像を見ることができるが、石見銀山処刑場・千人壺に関する情報、展示物は一切公開されていない。また、この史実も公開していない。〕 現在、千人壷も含め、留置所跡、処刑場跡は観光案内のパンフレットなどからすべて削除された(石見銀山が世界遺産に向けて活動を始めた時期から)。〔行政の説明によれば、千人壷の記録は伝承のみに留まり、処刑の正確な地所に関する江戸期の記録が確認出来ない事が、石見銀山処刑場と合わせて情報を削除とした根拠となっている。〕 官民一体となって触れないことが基本方針となっている。 石見銀山資料館でもこれらに類する当時の資料や展示物はすべて撤去され「負の遺産」は公に公開していない。 管理は年数回、町のボランティアが清掃する程度。行政は管理放棄しているため場所を示す公道の看板は傾き朽ち果て観光客には知られないよう配慮されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千人壷」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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