翻訳と辞書
Words near each other
・ 千宗旦
・ 千宗易
・ 千宗興
・ 千宝美
・ 千客万来
・ 千客万来 (ラジオ番組)
・ 千客万来!ほのぼのサンデー
・ 千客万来!ほのぼのマンデー
・ 千客万来!家族的食堂
・ 千家
千家俊信
・ 千家元麿
・ 千家典子
・ 千家十職
・ 千家和也
・ 千家哲麿
・ 千家国麿
・ 千家家
・ 千家尊福
・ 千家松人形・お鯉


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

千家俊信 : ウィキペディア日本語版
千家俊信[せんげ としざね]

千家 俊信(せんげ としざね、宝暦14年1月16日1764年2月17日) - 天保2年5月7日1831年6月16日))は、日本国学者であり歌人。第七十六代出雲国造千家俊秀の弟。出雲国神門郡杵築村宮内(現島根県出雲市)生まれ。のちに分家して千家日古主と名乗ったり、清主と改名したりした。
明治の文豪小泉八雲の妻セツは玄孫にあたる。
== 人物像 ==
一般には彼の開いた塾の名をとって梅廼舎(うめのや)と呼ばれた。若い頃漢学を学び、壮年になってから京都に出て、浅見絅斎の高三傑の一人であった西依成斎の門に入って、儒学を修めた。寛政4年(1792年)、29歳の時に伊勢に行き本居宣長のもとで学び、その高弟の一人になった。その後郷里に帰り梅の舎塾を開いた。この時から杵築は中国地方における国学の先進地となり、他国からの留学生がたくさんみられるようになった。寛政12年(1800年)の梅の舎塾の門人録には220人もの名が記録されている。
俊信は内山真龍の門にも学び、龍門七士に数えられた。国学、神学(主として垂加神道)、歌道にも通じたほか、槍術、医学、天文、三弦、茶道の諸学、諸芸に達し、霊能力も備えていたといわれる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「千家俊信」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.