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千島国(ちしまのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つで、五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。 領域は最初国後島と択捉島で、後に得撫島以北の千島列島と色丹島が加わった。 現在の根室振興局管内の東部にあたる。 ==沿革== ここでは千島国成立までについても記述する。 飛鳥時代の斉明天皇のころ樺太で阿倍比羅夫が一戦交えた粛慎は、当時国後郡域にも及んでいたオホーツク文化圏に属する人たちとも言われている。オホーツク文化は平安時代前期ころ擦文文化の影響を強く受けたトビニタイ文化へと移行し鎌倉時代ころまで続いた。また、鎌倉時代から室町時代にかけて、北海道太平洋岸から千島国域にかけて日の本と呼ばれる蝦夷(えぞ)がおり、蝦夷沙汰職・蝦夷管領はこれを統括していた。 しかし、千島列島は火山噴火や巨大津波が定期的に発生し、ウルップ島より北ではオホーツク文化期にかけていったん拡大したものの、その後は炭素14による鑑定で生活痕が発見されない断絶期が13世紀半ばから約400年間あるなど、過酷な環境だった。 17世紀以降はメナシクルが、カムチャッカ半島にかけ半定住・移動生活を送り、交易も行っていたと見られる。 〔千島列島における資源・土地利用の歴史生態学的研究 〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千島国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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