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千本 義隆(せんぼん よしたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、旗本(交代寄合)。那須七騎千本氏当主。 == 生涯 == 天文10年(1541年)、下野国の武将・茂木治清の子として誕生。初名は義政。 はじめ、千本資俊に男子がなく養子として入るが、実子の資政が生まれると不和となり、実家の茂木家に戻され実質的に廃嫡された。ところが、天正13年(1585年)12月、大関高増の謀略に加担し資俊父子が殺害され千本氏が断絶すると、その名跡を継ぎ千本大和守義隆と名乗った。そして、千本氏の領地は那須資晴により、大関三兄弟(高増、大田原綱清、福原資孝)および大谷津周防(殺害現場となった滝寺の住職。その後還俗した)に分けられ、残りを義隆の領地となった。 天正17年(1589年)8月に豊臣秀吉より呼び出しを受けたが、これに遅参して速やかに上京して拝謁しなかったことを責められ、所領の下野国内30ヶ村のうち23ヶ村を没収された。天正18年(1590年)、小田原征伐には豊臣方に属して子の義定とともに参戦し、秀吉より下野国芳賀郡内2,070石を安堵する旨の朱印を賜る。この後、那須資晴が小田原に遅参して改易されたことにより、千本氏は独立を果たした。文禄の役でも義定とともに名護屋城に在陣したが、渡海はしていない。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、妻らを江戸に人質に差し出し、徳川方に属して所領を安堵される。そして慶長7年(1602年)に子義定の功績によって千本氏は3,370石に加増され、また孫の義昌も500石を与えられた。 元和元年(1615年)10月3日に死去。享年75。 千本氏は、千本義等(義昌長男)の代に子がなく、一旦は3,870石の一族の所領を没収されるが、千本和隆(義昌次男)が200石(のち1.050石)の旗本(交代寄合より除外)として再興することを許された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千本義隆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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