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千村五郎 : ウィキペディア日本語版
千村五郎[ちむら ごろう]
千村 五郎(ちむら ごろう、生没年不詳〔『日本キリスト教歴史大事典』では1807年生まれ・1891年3月18日死去とするが、同族である尾張藩の儒者・千村峒陽kotobank )と混同した可能性がある。〕)は、日本英学者牧師である。名は仲清、号は健堂、小木曽山人。別名は木曽五郎。
1835年(天保6年)から1838年(天保9年)の間に〔茂住實男「千村五郎-蕃書調所最初の英語教師-」 〕、美濃国可児郡久々利村(現・岐阜県可児市)の領主千村頼久の孫として生まれる。名古屋に出て伊藤圭介に師事し、田中芳男柳河春三らと共に蘭学英学を学んだ。1860年万延元年)、幕府の蕃書調所の英学句読教授出役に任命され、詩文・蘭学を研究した。1864年元治元年)、外国奉行手附横文字認方出役に命じられ、開成所(蕃書調所の後継)を辞する。
性格は頑固で片意地な面があった。乗馬を好んでいた。尾張本草学の研究団体「嘗百社」の同人であった〔。
明治維新後は斗南藩の洋学所で英語を教え、後に英学塾協和社を開いた。この頃の門下生に井深梶之助都築馨六らがいる。1872年(明治5年)、アメリカ合衆国シカゴに留学したが翌年に病気のため帰国。1874年(明治7年)にカラゾルス宣教師から洗礼を受ける。東京第一長老教会の長老になった。
また、後には美普教会の牧師になり、日本橋呉服町の講義所(教会)の牧師をした。1884年(明治17年)にはハイデルベルク教理問答の翻訳である『鄙語海徳山問答』を発行する。その後、再渡米するが、帰国後中風になり、東京で死去した。没年は明治20年(1887年)とするもの〔石附実『近代日本の海外留学史』(ミネルヴァ書房、1972年)〕や、1891年(明治24年)8月31日の記録に「木曽五郎」の名前が記されているものもある〔。
== 脚注 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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