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明治座(めいじざ、英語:''Meijiza'')は、東京都中央区日本橋浜町二丁目にある劇場、およびこれを運営する企業の株式会社明治座(かぶしきかいしゃめいじざ、英語:''Meijiza Co., Ltd.'')である。 == 概要 == 明治時代からの長い歴史を持つ「日本橋明治座」は、「銀座歌舞伎座」「新橋演舞場」「お堀端帝劇」などとともに、東京を代表する劇場として親しまれてきた。 1873年(明治6年) に喜昇座(きしょうざ)として創建された本劇場は、初期には焼失と再建を繰り返しながら成長し、その度に名称も久松座(ひさまつざ)、千歳座(ちとせざ)とめまぐるしく変わっていった。1893年(明治26年)に初代市川左團次が千歳座を買収して座元となり、これを明治座と改称するに及んでやっとその名が落ち着き、今日に至っている。 明治座は戦前から戦後昭和の一時期までは、歌舞伎や新派の殿堂として知られた。また、大正時代の一時期は野球部を保有していた。〔大平昌秀著 異端の系譜 p51〕その後は時代劇公演や、時代劇俳優や演歌歌手など年配に好まれる芸能人が座長となった歌謡ショー形態の公演(座長公演)が中心となった。2000年代に入るとテレビ局との提携による現代劇や観劇者の世代を引き下げたミュージカル形態の公演もおこなわれるようになった。舞台設備には、宙乗り装置も常備されている。各階のロビーには所蔵絵画が多数展示されており、美術館のような雰囲気を醸し出している。 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼失した明治座は、その残骸をむき出しのまま放置されていた〔NPO法人東京中央ネット > 特集 > 今月の顔、三田政吉 〕。地元有志の間で明治座復興の気運が盛り上がり、1947年(昭和22年)3月に復興期成会が組織された〔。明治座設立発起人準備委員会を開いたのは、復興期成会結成から3年近くも経った1949年(昭和24年)11月だった〔。発起人総代に三輪善兵衛(ミツワ石鹸社長)、副総代に新田新作(新田建設社長)、準備委員に松坂屋の伊藤鈴三郎、松竹の大谷竹次郎などが名を連ね、料亭「玄冶店 濱田家」を営む三田政吉も参加した〔。建設は新田建設が請け負い、1950年(昭和25年)11月30日に開場に漕ぎ着けた〔。 1957年(昭和32年)に三田政吉が明治座代表取締役専務となり、同年に漏電のため焼失した明治座の再建に尽力する〔。1993年に三田政吉は明治座代表取締役会長となる〔。2002年から、政吉の長男である三田芳裕が社長を務めている。 また、福岡市博多区の博多座で年1回の割合で舞台を制作しているほか、明治座グループとして俳優養成機関・明治座アカデミーの運営や、都内を中心に外食産業も手掛けている。 1993年には、再開発で建て替えた賃貸オフィスビルの浜町センタービル低層階を占める形となっている。エスカレーターやエレベータを備え、客席には車椅子スペースの設置など、バリアフリーを導入している。 公演方式は他の劇場とは異なり、30分程度の幕間(休憩時間)を2回挟む。劇場内に大人数に対応した食堂や喫茶コーナーがあり、休憩時間を利用して客を誘導するシステムとなっている(食堂は一部事前予約制)。飲食店のほかにもロビーには売店が多数あり、公演にちなんだ土産品や衣料品雑貨などを販売している。 弁当製造部門は明治座本体が運営しており、江東区東砂に工場があり劇場で供されるほか、都内へケータリングも行っている。西京漬は単体で主力商品としている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「明治座」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Meiji-za 」があります。 スポンサード リンク
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