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千田 是也(せんだ これや、1904年7月15日 - 1994年12月21日)は、日本の演出家、俳優。東京市出身、建築家・伊藤為吉の五男。本名は伊藤 圀夫。 == 略歴 == 東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)ドイツ語科在学中から土方与志の舞台美術研究所に通い始める。1922年(大正11年)に府立一中卒業後、早大独文科聴講生を中退して演劇の道に入る。関東大震災後の1924年、土方与志、小山内薫らによる築地小劇場の第一期研究生となり、第1回公演の『海戦』で初舞台を踏んだ。1926年に村山知義、佐野碩らと前衛座を結成した。 1927年(昭和2年)にドイツへ渡る。渡欧前の4月29日、松平里子、田谷力三、壇治衛(ジェームス・ダン)、石井漠、石井小浪、人形座、前衛座が出演して千田是也を送る会が築地小劇場で開催された〔千田是也を送る会ポスター 〕。ドイツのラインハルト演劇学校に入学し演劇を勉強。卒業後、ドイツ共産党に入党した。ベルリンでは同じくドイツ共産党員となった元東京帝大医学部助教授の国崎定洞らとともにドイツ共産党日本語部を設立。「ベルリン反帝グループ」とよばれる在独日本人メンバーの一人として活動し、小林多喜二の『一九二八年三月十五日』など日本のプロレタリア文学をドイツ語訳している〔千田是也『もうひとつの新劇史 -千田是也自伝-』筑摩書店 1975年〕。 1931年、現地で結婚したドイツ人女性・イルマとともに帰国(後に離婚)。同年に東京演劇集団を結成し、ブレヒト作『三文オペラ』を翻訳した『乞食舞台』を第一回公演として上演した。1934年には新築地劇団に参加し演出・俳優の両方で活躍し、左翼演劇のリーダー的存在となった。1940年5月、新築地劇団を脱退。同年8月19日の新劇弾圧により治安維持法などで検挙され、拘留された。1942年に出獄し、女優の岸輝子と結婚。また、築地警察署で拷問死した小林多喜二の遺骸を引き取り、デスマスクを製作した。 1944年、東野英治郎、小沢栄太郎、青山杉作らと俳優座を創立、亡くなるまで同座代表を務めた。1949年に俳優座養成所、1954年に俳優座劇場を開設し、俳優座のリーダー的存在として活躍した。 千田が新劇界に与えた功績はとても大きいものであり、西欧の近代劇や古典劇の上演の基盤をつくるとともに、日本の現代演劇において最初のまとまった実践的な演技論でリアリズム演技の名教科書といわれる「近代俳優術」(1949年)を著して、近代的な演技術・俳優術を理論化した。また、ベルトルト・ブレヒトの戯曲を翻訳紹介・上演も行なった。 1957年にテレビドラマへの出演はほとんど皆無に等しいが、1940年代から1970年代頃まで約100本の映画に出演している。 1979年にドイツ民主共和国芸術アカデミーの会員となった。1987年にはチェルノブイリ原発事故を扱った『石棺』を演出した。 1994年12月21日、肝臓癌のため東京都港区の済生会中央病院で死去。90歳。その2日前に国崎定洞生誕100周年の集いに出席したのが公の場に姿を見せた最後の機会であった〔川上武・加藤哲郎『人間 国崎定洞』勁草書房、1995年〕。 1998年から、毎日芸術賞で目覚ましい活躍をした演出家に与えられる「千田是也賞」が設けられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千田是也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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