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弁才船[べざいせん]
弁才船(べざいせん)は中世末期(安土桃山時代)から江戸時代、明治にかけて日本での国内海運に広く使われた大型木造帆船である。弁財船、弁済船とも記述された〔愛知県の博物館 「菱垣廻船と樽廻船」 〕。 ==由来== 弁才船の名の由来は複数の説があり、確たるものは存在しない。中世に運漕(海運)の従事者は弁済使と呼ばれており、これに因むという節や、へさきがある船を意味する舳在船(へざいせん)が転じたという節などがある。なお、弁才船の船乗りは弁財衆または弁財者と呼ばれた〔。 元々は瀬戸内海で使用された中小船舶であった。近世前期の弁才船の積石数は110石から960石で〔栃木県図書館 「江戸時代の千石船の大きさが知りたい」 原典:『図説和船史話』(石井謙治/著 至誠堂 1983)〕、主力は250石前後であった。18世紀(元禄末期)より船型も逐次大型化し、350石積が主力となり1000石を超える大型船も登場し、江戸時代後期には1000石積が主流となった〔。この頃には弁才船が広く普及し他の船型を駆逐した結果、廻船といえば弁才船を指すようになった。千石船は、船型に関わらず積石数(つみこくすう)を意味していたが、千石積みの弁才船が広く普及したため弁才船の俗称として千石船と呼ばれるようになった〔栃木県図書館 「江戸時代の千石船の大きさが知りたい」 原典:『日本史大事典 第4巻』(平凡社 1993)〕。 当初の弁才船のみに見られる特徴と言うものはあまりない。船体構造は航(かわら)・かじき・中棚・上棚の外板と多数の梁によって構成され、伊勢船や二形船と変わらず、船尾構造にも違いはない。ただ、船首のみが関船と同じ太い一本水押となっており、特徴と位置付けられる。これは他の船首形状に比べて速力や凌波性に優れており、この点が弁才船に改良が行われ他の船種を圧倒した要因と言える。 ちなみに北前船・菱垣廻船・樽廻船は弁才船であり(北前船は他の船と多少の違いはある)、五大力船などの小廻船も基本的には弁才船と同じ構造をしていた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「弁才船」の詳細全文を読む
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