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保田妙本寺(ほたみょうほんじ)は千葉県安房郡鋸南町吉浜にある寺院。日興の法脈を継承する富士門流に属し、第14世・日我の教義による「日蓮本仏論」を信奉する。静岡県駿東地方に分布する富士五山や、京都要法寺、伊豆実成寺とともに、同門流の興門八本山を構成している。 その他の通称としては、千葉妙本寺、安房妙本寺、吉浜妙本寺なども用いられる。 戦国時代には里見氏の保護を受け、また寺側も同氏に城砦として寺を提供して対後北条氏との戦いにおいて最前線基地となっていた事が里見氏の古文書などから明らかにされている。 == 沿革 == *1338年(延元3年)3月11日、足利尊氏、保田妙本寺の坊地を安堵す。 *1341年(興国2年)2月12日、薩摩阿日叡、保田妙本寺において日郷より教えを受ける。 *1353年(正平8年)4月8日、保田日郷、本尊聖教類を吉浜宝蔵に安置し衆徒を誡む。同日、吉浜法華堂〔妙本寺〕を南条時綱の子牛王丸〔日伝〕に付嘱し牛王丸出家まで吉浜法華堂を山城房日明に託す。4月13日、氏清より吉浜法華堂別当職並びに寺地安堵状を受く。4月17日、山城房日明に安房安西内伊戸村の法華堂を譲る。4月25日、保田妙本寺開基小泉4代、宰相阿日郷寂。〔61歳〕 *1354年(正平9年)2月中旬、保田日明、薩摩阿日叡の本迹問答十七条を録す。4月22日、日慶〔薩摩阿日叡の異母弟〕保田日郷の分骨を日向に納む。7月21日、日向法華堂〔定善寺〕焼失。11月8日、保田妙本寺の板本尊〔願主2代日賢〕彫刻(妙本寺蔵) *1382年(弘和2年)3月5日、日向の法一、土地をあいのやつの御堂〔保田妙本寺〕に寄進す。 *1395年(応永2年)11月28日、成喜、保田妙本寺の寺地を安堵す。 *1401年(応永年8年)10月27日、鎌倉管領足利持氏保田妙本寺の寺地を安堵す。 *1419年(応永26年)8月8日、保田妙本寺、板本尊を彫刻す。 *1454年(享徳3年)7月1日、足利成氏、制札を保田妙本寺に掲ぐ。 *1477年(文明9年)保田妙本寺、日向諸末寺と和融。 *1506年(永正3年)8月13日、藤平の母田地を保田妙本寺に寄進。 *1514年(永正11年)11月16日、保田・小泉11代三河阿惣持坊日要寂。〔79歳〕 *1553年(天文22年)7月13日、保田妙本寺兵禍焼失。 *1577年(天正5年)保田妙本寺再建。 *1580年(天正8年)宇部弘政、保田妙本寺に田地を寄す。 *1581年(天正9年)大聖人300遠忌。12月25日、保田日侃および隠居日我、島津藩に日向の保田妙本寺末庇護の事を訴う。 *1591年(天正19年)7月28日、里見義康、保田妙本寺の寺領3分の1を安堵す。11月12日、里見義康、保田妙本寺の諸役を免ず。 *1593年(文禄2年)12月15日、里見義康、佐久間郷の田地5貫文〔3分の1〕を保田妙本寺に寄す。 *1606年(慶長11年)7月3日、里見忠義、保田妙本寺に50石6斗6升4合を寄す。 *1648年(慶安1年)2月20日、保田日前、小泉久遠寺及び衆檀中へ保田妙本寺の後董を求む。 *1686年(貞享3年)4月、保田妙本寺より西山本門寺の出入取下げをなす。 *1732年(享保17年) 日興・日目400遠忌。保田妙本寺客殿再建。 *1858年(安政5年)12月7日、保田妙本寺本堂焼失。 *1865年(慶応1年)6月、保田妙本寺客殿再建。 *1876年(明治9年)末寺13ヶ寺とともに、富士門流の統一教団日蓮宗興門派の結成に参加。 *1899年(明治32年)、日蓮宗興門派は日蓮本門宗(本門宗)と改称。 *1941年(昭和16年)、本門宗は一致派の日蓮宗、勝劣派の顕本法華宗とともに三派合同を行い、日蓮宗を結成。 *1957年(昭和32年)4月、旧末寺4ヶ寺とともに日蓮宗を離れ、日蓮正宗となる(旧末寺9ヶ寺は日蓮宗に残留)。 *1995年(平成7年)、日蓮正宗から独立し、単立の宗教法人となる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「保田妙本寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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