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千載和歌集[せんざいわかしゅう] 『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)とは、平安時代末に編纂された勅撰和歌集。全二十巻。『詞花和歌集』の後、『新古今和歌集』の前に撰集され、勅撰和歌集の第七番目に当たる。略称『千載集』(せんざいしゅう)。 == 成立 == 撰者は藤原俊成の一人、ただしその息子の藤原定家も編纂の助手を務めたという。『拾芥抄』によれば寿永2年(1183年)2月、 後白河院より俊成に撰集の院宣が伝達された。そののち文治4年(1188年)4月22日、『千載和歌集』は完成し後白河院の奏覧に供された。 しかし平親宗の日記『親宗卿記』によれば、俊成はこの十年ほど前に「院宣」を蒙り、以後勅撰集の編纂を続けていたと記されている〔『親宗卿記』文治4年4月22日の条に、「今日入道俊成卿進撰集於院云々。十年来蒙院宣令勅定也。其名千載和歌集云々」(今日俊成卿が後白河院の御所において和歌の集を上進した。これは十年も前から編纂するよう院宣を蒙っていた勅撰集である。その名を千載和歌集と称す)とある。「入道」とは当時すでに俊成は出家し、釈阿と名乗っていたことによる。〕。俊成は『山家集』や『経盛集』等によれば、『千載和歌集』撰進のかなり以前から私撰和歌集を編纂していたことが知られ、この私撰集は『三五代集』と名づけられていた。「三五」とは「三五 十五」(3×5=15)、すなわち15代にわたる天皇の代に詠まれた和歌を採った集という意味で、これを基にして『千載和歌集』が編纂されたという。序文の「仮名序」には撰進の日付が文治3年の9月20日と記されており、実際の奏覧がこの翌年であるにもかかわらず敢えてこの日付を記したのは、後白河院の意向に沿ったものだといわれている。さらに奏覧ののち、撰者(俊成)の歌が少ないとの後白河院の指摘により、俊成の歌を加える改訂が俊成自身の手によって行われた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千載和歌集」の詳細全文を読む
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