|
協和帝(きょうわてい、ヒエップホアてい、Hiệp Hoà、 1847年11月1日 - 1883年11月29日)は、阮朝の第6代皇帝(在位:1883年7月23日-1883年11月29日)。諱は阮福洪佚(Nguyễn Phúc Hồng Dật)、後に阮福昇(Nguyễn Phúc Thăng)と改めた。 紹治帝の第29皇子としてフエで生まれた。朗国公に叙せられていたが、嗣徳帝の後を継いだ育徳帝が3日で廃位されると、38歳で即位した。 協和帝が即位した頃は清仏戦争が以前続いており、戦場となった国内ではフランス軍が優勢となっていた。朝廷では・・の3名が輔政大臣となって実権を握り、協和帝は彼らの傀儡でしかなかった。 1883年8月20日、でフランス軍に敗北。1883年8月25日、フランスの保護国となるに調印し、ベトナムの独立は失われたが、はその後も続いた。 協和帝は阮文祥・尊室説の傀儡であることを不満とし、両名を排除するため、フランスに接近しようとしたが、これを知った阮文祥は(紹治帝の皇后)に奏請したうえで協和帝を廃位し、陳践誠は殺害された。協和帝の在位期間はわずか4か月であった。 廃位された協和帝は王宮内の育徳学堂に幽閉され、そこで毒酒を飲むよう強制された。 次代(阮朝第7代)皇帝は、甥の建福帝である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「協和帝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|