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協立映画プロダクション : ウィキペディア日本語版 | 協立映画プロダクション[きょうりつえいが-] 協立映画プロダクション(きょうりつえいが-、1931年 設立 - 1932年 解散)は、かつて存在した日本の映画会社である。牧野省三の没後2年で倒産したマキノ・プロダクションの最後の作品を監督した金森万象が設立したが、3本の作品のみを残して倒産した。 == 略歴・概要 == 映画ファンから映画記者になり、取材先の牧野省三の書生になって、1919年(大正8年)、牧野が最初に興したミカド商会で映画監督になり、1929年(昭和4年)の牧野が死去し、1931年(昭和6年)の最後の最後までマキノ・プロダクションに残り、同社の最終作品の監督をつとめた生粋のマキノ人・金森万象が、同社の倒産後に、マキノの残党をかきあつめて設立したのが、この「協立映画プロダクション」である〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「金森万象」の項(p.120-121)を参照。同項執筆は竹中労。〕。 設立第1作『猿飛漫遊記 前後篇』は、脚本に吉田信三を起用した。かつて山中貞雄がマキノ・プロダクションの脚本部にいたころの相棒で、その後脚本は採用され、『浪人街』などの助監督もつとめたが、まだ芽が出なかった人物であった〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「吉田信三」の項(p.444-445)を参照。同項執筆は岸松雄。〕。主演にクレジットされている「沢田慶之助」は、衣笠貞之助の「衣笠映画連盟」時代は「小沢茗一郎」と名乗っていたマキノのバイプレイヤー沢田敬之助である。同作は、同年内に製作されたが、公開は翌1932年(昭和7年)5月1日、最後に製作した『魔の上海』と同時上映で、浅草「大東京」などで公開された。 第2作として製作した『光を仰ぎて』は、教育者として知られる蓮沼門三を原作に迎え、脚本に当時、児玉省が主筆をしていた教育雑誌「新教育」のスタッフが脚本を執筆したが、公開できた記録が残っていない。やがて経営に行き詰まり、製作をつづけることができず、倒産してしまった〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「協立映画プロダクション」の詳細全文を読む
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