|
第二奇兵隊(だいにきへいたい)は、幕末期に長州藩で結成された長州藩諸隊の一つ。総督は山内梅三郎、清水美作(親春)など。軍監に白井小助、世良修蔵、林半七、大洲鉄然など。 ==概要== 文久3年6月(1863年7月)、高杉晋作が身分を問わない奇兵隊を創設すると、それに触発されて元治元年5月(1864年6月)、秋良雄太郎らが大島郡で真武隊を結成したが、軍資金不足などで活動不能に陥っていた。 慶応元年1月(1865年2月)に、白井小助・世良修蔵らが中心となってこの真武隊を再興、他の数隊が合流する形で部隊が編成された。結成地である周防地方が長州藩領の南東部に位置するため、北西部の長門地方で結成された奇兵隊との対称で、南奇兵隊と称された。初代総督は白井小助、軍監には世良修蔵が就いた。室積村の普賢寺を屯所とし、農民・神官・僧侶・下級藩士などが多く参加、他隊を吸収するなどして隊員は300名を超えた。 同年3月(1865年4月)、諸隊を長州藩正規軍として公認することに伴って整理統合され、第二奇兵隊と改称、奇兵隊総督の山内梅三郎が第二奇兵隊総督も兼務した。白井・世良は軍監となり、隊員数は100人に削減(後に125人)、本営も石城山神護寺に移動した〔ただし、神護寺跡に立てられた説明板(平成24年3月 光市教育委員会)では「約400名の隊士」が石城山に入ったとしている。〕。 翌慶応2年4月(1866年5月)、幹部の立石孫一郎が、隊員の大部分(約100名)を率いて脱走し、幕府の倉敷代官所及び、京都見廻役・蒔田広孝の浅尾藩陣屋を襲撃する(倉敷浅尾騒動)。その後、高梁川河口において幕府軍の銃撃を受けて潰走、長州藩領へ逃げ帰るが、立石以下脱走隊士の多くが藩政府により処刑された。 同年6月の第二次長州征伐において大島が幕府軍に占領されると、高杉晋作率いる艦隊が夜間奇襲により幕府海軍を駆逐、世良修蔵指揮下の第二奇兵隊らが上陸し大島の奪還を果たした。 慶応3年、藩軍の再編により膺懲隊と合併して健武隊となり、翌慶応4年1月(1868年1月)の鳥羽・伏見の戦いに参加している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第二奇兵隊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|