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南殿[みなみどの] 南殿(みなみどの、生年不詳 - 寛永11年(1634年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。羽柴秀吉の側室。 == 略歴 == 山名禅高の娘との説もあるが、素性など詳細は不明。秀吉が近江長浜城主の頃の側室とされ、秀吉の第一子となる石松丸(羽柴秀勝)を産んだ〔秀勝の没年月日は寺の記録等によりほぼわかっているが、生年や没年齢は不詳である。6歳や7歳という記載もあるが、そうすると秀吉が長浜城主となる数年前に生まれたことになる。天正元年もしくは天正2年とするものが「長浜城主の頃の側室が生んだ子」と言う説明に符合するが、いずれしても信憑性に問題のある寺伝等の記述などがあるだけで確固たる根拠はなく、没年から逆算したに過ぎない。〕。「南殿」の通称は、長浜城で与えられた館が南側にあったためと推測されている。しかし秀勝は数年後に夭折してしまい、その後さらに秀吉との間に女子をもうけたが、これも早世した。 秀勝が亡くなり、一方で女児が生れたとされる天正4年(1576年)は、正室・寧々(高台院、北政所)から夫の不貞と不満とを訴えられた織田信長が、秀吉を「剥げ鼠」といって叱責する書状を返した同じ年であるため、側室の南殿が子を産んだことは、寧々と秀吉の夫婦喧嘩にも何らかの関係があると思われる。 結局のところ、南殿は、秀吉の5人の有力な妻妾〔寧々(高台院、北政所)、淀殿(小谷の方)、松の丸殿、三の丸殿、加賀殿の5人。〕には数えられるには至っておらず、2人の子に先立たれた後ほどなくして竹生島の宝巌寺で出家した。寛永11年(1634年)に死去。南殿の存在は、竹生島文書内の竹生島奉加帳にて確認できると言う〔田中阿里子『歴史と旅』1981年1月号、秋田書店〕。服部英雄は、側室にしては竹生島奉加帳の寄進額がだいぶ少ないとし側室かどうか疑問視している〔服部英雄 『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社、2012年)p.667〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南殿」の詳細全文を読む
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