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南民戦事件
南民戦事件(なんみんせんじけん)は、朴正煕の維新政権(第四共和国)下にあった韓国で韓国中央情報部(KCIA)が地下組織「南朝鮮民族解放戦線(南民戦)準備委員会」を摘発した事件。摘発当時は、人民革命党事件、及び民青学連事件と同じく「韓国の国家体制の転覆を狙った事件」として扱われたが、2006年以降は「韓国の民主化運動の一角」だったと韓国政府から認定されている〔남민전사건(두산백과): 지식백과 〕。ただし、これについては批判もあり、南民戦に対する評価は人によって分かれている。 == 概要 == 南朝鮮民族解放戦線(南民戦)準備委員会は、1976年2月に李在汶(イ・ジェムン;、1934年〔남민전 삐라와 RO(?) 전단지(南民戦ビラとRO(?)チラシ) .ニュースタウン2015年2月27日付記事〕~1981年)を中心とする維新政権に反発する人士によって地下組織として結成された。地下組織となったのは、当時の韓国政府が韓国中央情報部(KCIA)を使って反政府運動を「公安事件」として徹底的に取り締まっており〔当時の韓国では金大中事件(1973年)を機に反維新体制運動が活発化しており、KCIAは民青学連事件(1974年)、人革党再建委員会事件、学園浸透スパイ団事件(共に1975年)と立て続けに「反国家勢力」の摘発を行なっていた。なお、これら3事件はいずれも2000年代に冤罪だったと確定している。〕、首班格の李在汶自身も人革党再建委員会事件(1975年)の一員としてKCIAから指名手配されていたからである。 裁判において、韓国検察は南民戦を「朝鮮戦争以降で最大の地下組織」とし、「ベトコンと同様にデモとテロ、扇動、ゲリラ闘争によって社会を混乱させ、韓国国家を変乱させようとした赤色(共産主義)集団」であると規定した。一方の被告(南民戦関係者)側は「維新政権を打倒しようとする反独裁民主化運動の団体」であると主張したが〔남민전사건(한국근현대사사전): 지식백과 〕、1980年に大法院で有罪判決が下され、主犯格の李在汶と申香植()に死刑、その他関係者に無期懲役または15年以上の有期懲役の判決が下された〔大法(대법),南民戰(남민전)선고 李在汶(이재문)·申香植(신향식) 사형 .京郷新聞1980年12月24日付記事〕。その後、李在汶は1981年11月に西大門刑務所で獄死し、申香植は1982年10月に死刑が執行された。その他無期懲役者については、1988年までに釈放されている。 なお、労働党の洪世和も南民戦に参加していたが、KCIAの摘発時点でフランスへ出国していたために難を逃れている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南民戦事件」の詳細全文を読む
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