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南燕[なんえん]
南燕(なんえん、398年 - 410年)は、五胡十六国時代に鮮卑慕容部の慕容徳によって建てられた国。国号は燕。 == 歴史 ==
=== 建国期 === 南燕の始祖慕容徳は前燕の皇族で、370年11月に前燕が前秦の苻堅により滅ぼされた際、甥の皇帝慕容暐と共に長安に連行され、前秦の奮威将軍として仕えた〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P107〕。383年の淝水の戦いでも前秦軍の将軍として参戦している〔。しかしこの戦いで前秦軍は東晋軍に大敗し、以後華北における前秦の支配力が動揺した。 慕容徳はこれに伴い、兄の慕容垂に従って後燕の建国に寄与し〔、その政権中枢で重用された。396年4月に慕容垂が死去すると、兄の4男慕容宝が即位し、車騎大将軍・冀州牧として後燕南部の政治と軍事を任されて鄴(河南省臨漳県)に鎮した〔。ところが慕容垂の死で弱体化した後燕に対して北魏が侵攻を開始し、首都の中山に迫る勢いを見せた〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P105〕。さらに後燕内部では皇族の内紛が起こり、慕容宝の子慕容詳、弟の慕容麟が反乱を起こすに至ったので〔、397年12月に慕容宝は中山を放棄して龍城(現在の遼寧省朝陽市)に遷都した〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P106〕。しかしこれより2ヶ月前の10月には中山で自立していた慕容麟も北魏の圧力を受けて中山を放棄して鄴に逃れ〔〔、慕容徳と合流した〔。なお、これにより後燕は中原の領土を完全に失った〔。 398年1月、慕容徳は滑台(現在の河南省滑県)に移って燕王を称し、正式に南燕を建国した〔。ただし後燕は存続していたため、その関係は非常に微妙であった〔。
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