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南部 利義(なんぶ としとも)は、陸奥国盛岡藩の第13代藩主。第12代盛岡藩主南部利済の長男。諱は藩主時代は信侯、利道であり、隠居後に利義と改名。 == 来経 == 傳役は安宅中務、花輪栄、戸沢済彰(駿河。三戸式部の兄)、横沢兵庫が担当した。天保6年(1835年)に「四品」(従四位下)に叙任される。 弘化4年(1847年)、三閉伊一揆により父の隠居により第13代藩主に就任したが、世子時代に父の奢りを戒めて以降、仲が悪く、嘉永2年6月(1849年)に父の要求により弟・利剛に家督を譲り、11月に隠居した。この廃立に反対した東堂一堂一派は翌年には処分され、利済の院政がしばらく行われる。利済の重臣で近習頭である田鎖左膳は利義毒殺を画策するが、これは失敗する。 隠居後は麻布の下屋敷に居住していた。第二次三閉伊一揆においては利義の復位及び帰国も要求されたが、さすがに百姓による藩主廃立は認められないため、この要求だけは通らなかった。 隠居後は粗暴な行為が多く、安政2年(1855年)に老中・阿部正弘の命により、下屋敷の一室に押込めになる。その後も明治維新まで盛岡に帰国することはなかったため、幕末の盛岡藩政上は影の薄い存在となっている。 明治維新後に盛岡に戻り、楽堂と号して趣味人として晩年を過ごす。明治21年(1888年)8月21日に死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南部利義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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