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南部 政光(なんぶ まさみつ)は、 *三戸南部氏第4代当主。南部時実の子。 *根城南部氏第7代当主南部信政の子で、第8代当主。 == 南部政光(南部氏第4代当主) == 南部 政光(なんぶ まさみつ、建長3年(1251年)〔『南部史要』記載の享年15より逆算。〕 - 文永2年7月22日(1265年9月3日)〔政光の没年は『南部系譜』によるが、『嫡家系譜』の政光の事績とを見合わせていくと年代に齟齬が生じてくる。また幕府内の内乱の霜月騒動で討たれた中に名前が見える南部孫次郎を政光とする説もあるがこれでも記述の相違は解消されない。〕)は、三戸南部氏第4代当主、鎌倉時代の武将。三戸南部氏第3代当主南部時実の嫡男。幼名、孫次郎。後に政元と称したという説がある。子に北条茂時室、南部時光。 南部氏の初期の系譜に諸説あって一定しないが、兄弟と伝わる人物には南部政行、宗実、実政、宗経、義元がいる。 「南部系譜」では文永2年(1265年)7月22日に鎌倉で死去とする。法号は清光院殿峻厳崇公。『寛政重修諸家譜』によれば、葬地は三戸郡の三光庵。 一方「嫡家系譜」によれば、1331年の笠置山の戦いでは子の義元が鎌倉に常在していたため政元は京都進撃には加わらなかったという。1333年(正慶2年)2月、新田義貞が鎌倉を攻めた時には、北条高時の命によって高時の弟・左近入道慧性が分倍河原の戦いに参加しており、この時南部次郎政元(政光の改名)は奥州から駆けつけ、慧性に属して戦ったとされる。〔嫡家系譜のこの政光が慧性と奥州へ落ち延びる記述は『太平記』巻10に出る南部孫二郎に政光を当てているが、<近世こもんじょ館>の『三翁昔語』の記述として、『太平記大全』では南部孫二郎を信行、つまり、南部信長にしているようである。〕の鎌倉陥落後、政元は義行を鎌倉に止めて、自身は甲斐の本領に帰ったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南部政光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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