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南部 泰三(なんぶ たいぞう、1916年4月13日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである〔キネ旬, p.294.〕〔田中, p.85-86.〕〔''南部泰三''、''jlogos.com'', エア、2014年8月21日閲覧。〕〔''南部泰三''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年8月21日閲覧。〕〔''南部泰三''・''松角知己男''、日本映画情報システム、文化庁、2014年8月21日閲覧。〕〔''南部泰三''、KINENOTE, 2014年8月21日閲覧。〕〔''南部泰三''・''松角知巳男''、日本映画データベース、2014年8月21日閲覧。〕〔''南部泰三''、デジタル・ミーム、2014年8月21日閲覧。〕。本名は松角 知己男(まつかど ちきお)〔〔。1936年(昭和11年)に大都映画に入社して助監督となり、その後、大毎東日映画部、日本映画社、満洲映画協会を経て、第二次世界大戦後に独立した〔。1964年(昭和39年)から成人映画を手がけ、黎明期の作家とされる〔。第八芸術映画プロダクション代表、「亜細亜文化振興会」情報部長を歴任した〔。 == 人物・来歴 == 1916年(大正5年)4月13日、長崎県北高来郡湯江村(現在の同県諫早市高来町湯江)に生まれる〔〔。叔父に新国劇理事を経て、戦後、東宝取締役、東宝舞台代表取締役社長を歴任した俵藤丈夫(1893年 - 1964年)〔, 2014年8月21日閲覧。〕がいる〔。 旧制・長崎県立諫早中学校(現在の長崎県立諫早高等学校)に進学し、1933年(昭和8年)3月に四年次修了をもって東京に移り、同年4月、東京府豊多摩郡和田堀内村(現在の東京都杉並区)にある旧制・高千穂高等商業学校(現在の高千穂大学)に入学する〔。このとき満17歳であった南部は、映画・演劇に興味を抱き、同校に在籍しながら、神田区三崎町(現在の千代田区三崎町)にあった日本大学法文学部文学科芸術学専攻(現在の日本大学藝術学部)の聴講生になる〔。 1936年(昭和11年)3月、高千穂高等商業学校を第25回生として卒業〔高千穂, p.750.〕するとともに、叔父の俵藤丈夫の紹介を得て、同年4月、大都映画に入社する〔。演出部に配属され、助監督として大伴麟三(当時は龍三)、石山稔、益田晴夫らに師事する〔。1940年(昭和15年)には大毎東日映画部(現在の毎日映画社)に移籍し、ニュース映画・文化映画に携わる〔。同社は同年4月には戦時統制のため日本ニュース映画社(のちの日本映画社)に統合されており、この時期に本名の松角 知己男の名で監督に昇進、短篇映画『国民強歩行軍譜・歩け歩け』を伊奈太郎と共同で監督したが、同作が公開されたのは1941年(昭和16年)12月11日であった〔。1942年(昭和17年)には日本映画社の海外版製作部に異動になったが、翌1943年(昭和18年)には満洲映画協会(満映)に移籍し、大陸へ渡る〔。1944年(昭和19年)に結婚した〔。 1945年(昭和20年)8月15日に第二次世界大戦は終了したが、南部が内地へ引き上げてきたのは1949年(昭和24年)であった〔。同年10月、映画製作会社・東芸映画プロダクションを設立する〔〔。この時期の監督作はいずれも本名で発表しており、1951年(昭和26年)8月28日に公開された『肉体の幻想』、1954年(昭和29年)3月16日に完成した『裸になった蝶々さん』の2作の短篇映画が記録に残っている〔。1960年(昭和35年)には『危険な火遊び』を新東宝の当時の社長であった大蔵貢の意向を受けて製作、監督したが、同年12月1日に大蔵が退陣したことを受けて、同社は買い取りを見送り、公開が見送られた。同作のクレジットは南部 泰三であった〔。同作と洋画短篇二本を組み合わせて「世界悩殺特集」として公開したとする資料も存在するが、公開日は不明である〔泉, p.164.〕。 1964年(昭和39年)4月、南部は自社の社名を第八芸術映画プロダクションと改称、製作だけでなく自社配給も行うようになる〔。同年、『女体難破船』を製作・監督、日本シネマの配給により同年6月26日に公開されたが、これが南部の最初の成人映画である〔〔〔。以降、1966年(昭和41年)4月に公開された『赤い渦』までの2年間、朝日陽子や湯川美沙をおもに主演に起用して、14本の成人映画を量産した〔〔〔〔〔。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで成人映画黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小川欽也、小森白、山本晋也、湯浅浪男、宮口圭、深田金之助、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一とともに、南部の名を挙げている〔。渡辺護は、南部の監督作のうち『殺られた女』、『悶える女子学生』、『ただれた愛欲』のチーフ助監督を務めたという〔渡辺護「おれが南部泰三の助監督をやったやつは 、井川耕一郎、twitter, 2014年8月21日閲覧。〕。渡辺によれば、南部は「もう裸があれば評判になる。それがあれば、この映画はいいんだから、あとの芝居なんかどうでもいい」という考えであったという〔(井川)渡辺護さんは、助監督として南部泰三『殺られた女』(64)についたとき 、井川耕一郎、twitter, 2014年8月21日閲覧。〕。 1965年(昭和40年)には、東南アジアを視野に置いた、映画やテレビの人材を養成するために「第八芸術集団」を設立し、劇場用の成人映画の製作に並行し、記録映画・PR映画も並行して製作した〔。1967年(昭和42年)には台湾に渡り、『霧夜香港』を何基明と共同で監督、同作は同年2月19日に台湾で公開されている〔電影, p.402.〕。同作には台湾の俳優のほか、日本から山田美恵子、大西康子〔、2014年8月21日閲覧。〕らが出演した〔。 1971年(昭和46年)以降の作品が不明であるが、1976年(昭和51年)12月24日に発行された『日本映画監督全集』の南部の項には、新宿区北新宿の所在地が書かれており、満60歳の当時は存命であったとされる〔。以降の消息は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南部泰三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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