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南部義元[なんぶ よしもと]
南部 義元(なんぶ よしもと)は、鎌倉時代の武将。甲斐南部氏初代当主。〔「嫡家系譜」では三戸南部氏第5世当主。〕。南部氏宗家、第3世当主南部時実の五男。 == 生涯 == 義元は父、宗家第3世時実により甲斐の南部庄を分封されて治め家を興し封務を執る。〔『九戸戦史』では、に於いて義元を第1世一戸行朝と第2世、一戸義実の跡をうけた第3世、庄司太郎義元としている。〕元弘元年(1331年)8月に倒幕の陰謀が発覚した後醍醐帝は笠置山に行幸するが、前年の4月、父の南部実継の命を受け上洛した長継は護良親王を奉じて楠木正成の麾下に入っている。高時は元弘元年9月20日、大仏陸奥守、普恩寺相模守、足利治部大輔、他を大将軍とする20万余騎の幕府軍を京を目指し差し向けると正成らは赤坂城に立篭る。 この時幕府軍の中に南部三郎二郎の名が見える〔宮崎英修著『波木井南部氏事跡考』では、三郎次郎を義元の兄南部宗実の子、南部武行と思われるとしている。〕。幕府軍は9月,笠置山、10月に赤坂城を落すと翌元弘2年(1332年)3月7日,捕えていた後醍醐帝を隠岐島へ配流すると、12月には捕縛されていた実継が切られている。 元弘3年(1333年)2月11日〔新潮社刊・『太平記』では3月11日ではとする。〕、大塔宮の発した綸旨を受けた義貞が関東へ戻ると、5月、高氏は幕府に叛き京の六波羅を攻め鎌倉に反旗を翻し、北条仲時、などが討たれるが、義元は甲斐に帰っている。〔『盛岡南部氏物語』などによる。〕
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