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南部 義重(なんぶ よししげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に活躍した甲斐南部氏の第3代当主。南部義行の嫡男。奥氏や河西氏、仙洞田氏の祖とされる。ただし系譜によって記載・不記載が異なる。 == 生涯 == 義重の名は、複数ある南部系図の一部に見えるが、南部家が江戸幕府に提出した『寛政重修諸家譜』などには彼の名は無い。 『南部町誌 上巻』所収の系図(岩手県史・続群書類従・参考諸家系図から構成)によれば、義重は義行の子で、三戸南部10代の茂時および11代の信長の兄としてみえる。一方、同じく『南部町誌 上巻』所収の『参考諸家系図』南部氏(一系)子孫なしの系図の一つでは、義行の長男・太郎義重がある。ここでは将軍家に仕え甲斐守 に任じられたといい、嘉暦元年(1326年)に死去、〔義重の享年で、『南部史談会誌』には、「太平記○旧史集細註ニ嘉暦元年卒スルトアリ誤ル」とある。〕その子孫が伝を失うとする。 『太平記』にも義重は登場する。『南部史談会誌』(盛岡の郷土研究会発行の雑誌)によると、甲斐守義重は「太平記」の版本の一つである金勝院本と、「太平記網目」(既存の注釈論評をまとめ新解釈も付与した太平記の集成書、寛文8年(1668年)刊行)に登場するという。山下宏明校注『太平記』では彼の名は採用されていない。 『南部史談会誌』などによれば、甲斐の南部の庄を父、義行から継いでいた義重は元弘3年(1333年)、新田義貞の鎌倉攻めに南部時長ら南部一族と共に加わり、建武2年(1335年)11月、矢作川の戦いに新田方で参加し足利軍を破り、延元元年(1336年)5月、湊川の戦い後、尊氏が京に入ったため、南部義重は後醍醐天皇・新田義貞らとともに比叡山に逃れた。同年10月、足利尊氏と後醍醐天皇が和睦し、後醍醐天皇が光明天皇に皇位を譲った。このとき義重は義貞らとは別に後醍醐天皇に従っていて足利方に捕らえられ禁殺されたとする。 なお、山下宏明校注『太平記』に登場して甲斐守を授っているのは南部為重である。義重が記載される系譜において為重は義重の子とされている。南部甲斐守為重は義重と同様に後醍醐天皇に従って足利軍に捕らえられたとするが、義重とは違いその生死まで描写されていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南部義重」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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