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南部 茂時(なんぶ しげとき、正安元年(1299年) - 元弘3年/正慶2年5月22日(1333年7月4日))は、鎌倉時代末期の南部氏宗家、第10世当主とされる武将。ただし南部氏一族ではないとも指摘される。 == 概要 == 以下は南部氏の伝承による。 茂時は正安元年(1299年)甲斐国南部郷に生まれる。南部時実の曾孫で南部義行の次男。『南部系譜』の幼名は孫次郎義時〔t嫡家系譜は幼名を孫二郎とする〕。母が北条氏だったため、北条高時の信任を得て鎌倉に居住したという。正中2年(1324年)、甲斐の南部郷の諏訪神社の坐像を補修、続く正中3年には社殿を再興している。元徳2年(1329年)従五位右馬頭に叙任。1331年からの元弘の乱では幕府側にあり、元弘3年(1333年)正月、赤坂城・吉野城攻めに参加、これを陥落させる。楠木正成の篭る赤坂城攻め(幕府側の敗北)にも参加した。同年4月、六波羅救援に向かい、一条で後醍醐天皇側の軍を破る。 同年5月、高氏が鎌倉幕府に叛き京の六波羅探題を攻め落とし義貞が鎌倉攻めを行うと、茂時の兄、南部義重は一族を率いて信濃源氏らと共に鎌倉攻めに加わっている。ただし茂時は北条氏側につき鎌倉に入った。そして茂時や義重の父、と思しき南部太郎や弟と見られる南部孫二郎は北条泰家の軍に属して5月8日、武蔵の分倍河原の戦いで新田義貞率いる軍勢に敗退する。5月22日、北条一族が東勝寺で一族郎党と自害すると、茂時は囲みを破って藤沢に到り、清浄光寺にて自害している。他に佐藤彦五郎ら六名が殉死した。享年34。清浄光寺に葬られた〔茂時の墓は藤沢市の清浄光寺(遊行寺)に、盛岡市の南部氏の菩提寺教浄寺 には南部茂時の供養塔がある。教浄寺の開山は覚阿湛然和尚で、開基は南部11代南部信長。教浄寺ホームページによれば、教浄寺は南部信長が鎌倉で自害した兄茂時を弔うために建立したとされる。〕。この後、南部氏第10世の当主 左馬頭茂時の九戸の領地は結城親朝に与えられている。〔白河文書によると七戸左馬頭茂時の跡としている。『南部藩の歴史について草間俊一』。〕 しかしながら、『岩手県史』によれば、10代の南部茂時とは、戦国時代の南部信直時代に史料の散逸のため新たに系譜などがまとめられた際、『太平記』に北条煕時の子・南部(北条)茂時が自害した記録を南部氏系譜に取り入れた結果だとされ、彼の経歴は北条茂時(南部右馬頭茂時)のものであり、南部氏一族ではないとされる。 また「三翁昔語」の「口伝」に、茂時は6代目という根城南部家の古い言い伝えがあるという(『南部町誌 上』)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南部茂時」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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