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南部 行信(なんぶ ゆきのぶ)は、陸奥盛岡藩の第4代藩主。 == 経歴 == 寛永19年(1642年)8月17日、第3代藩主・南部重信の長男として盛岡で生まれる。寛文4年(1664年)、父が藩主になると同時に世子に指名された。寛文6年(1666年)に従五位下、信濃守に叙位・任官する。元禄5年(1692年)6月27日、父の隠居により51歳で家督を継いで第4代藩主となった。 しかし行信が藩主となった頃には、鹿角金山をはじめとする盛岡藩内における産金の減少、元禄7年(1694年)の大凶作から元禄8年(1695年)の大飢饉と、連年のように凶作が続いて4万人の餓死者を出すなど、藩財政が著しく悪化した。このため、新田開発の奨励、倹約の徹底、検見制廃止による税制改革、軍馬飼育義務の免除など様々な財政改革を試みるが効果は無く、元禄15年(1702年)には2万6,000人の餓死者を出すに至った。 このため、行信は次第に藩政に対する関心を失って、もともと文化人としての才能があったために儒教を盲信するレベルまで傾倒し、早世した長男・実信の葬儀では仏式を廃して儒式で行う始末で、江戸で落書のネタにされたという。このために儒臣が権勢を握り、代わって嗣子となった信恩を廃嫡しようとまでしている。 また武芸では砲術に長けており、数流派を合わせて心的妙化流を開き、第5代将軍・徳川綱吉の前で披露したこともあったという。この他馬術でも行信流を開いた。 元禄15年(1702年)10月11日、父の後を追うように盛岡で死去した。享年61。跡を三男の信恩が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南部行信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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