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南里 文雄(なんり ふみお、1910年11月24日 - 1975年8月4日)はジャズ・トランペット奏者で、ルイ・アームストロングに「日本のサッチモ」とあだ名が付けられた。彼は、彼の母国外で名声をはせるようになった、とりわけ初期の日本のジャズ・ミュージシャンの一人である。長年続いている日本のジャズの賞、「南里文雄賞」は、彼の名前に由来している。息子には、トランペット奏者の南里雄一郎がいる。 == 経歴 == 大阪市南久宝寺町生まれ。6人兄弟の末っ子で、生後4日にして父親が死去。 そのため、母親の実家広島、姉の婚家京都、兄の居る神戸など各地を転々とする。 神戸の高等小学校を卒業して、1925年に大阪の高島屋少年音楽隊に入隊。音楽隊の解散後、神戸のダンス・ホールで演奏し、1928年に上京。上京後、浅草電気館に出入りしていた井田一郎バンド(第2次チェリーランド)に加入。しかし、加入後僅か2ヶ月で飛び出してしまう。 1929年、上海に渡りテディ・ウェザーフォードにピアノを師事。 1932年、船のバンドマンに加わってサンフランシスコへ渡る。同年、溜池フロリダ出演中の菊池滋弥バンドに入り、1934年には自己のバンド「南里文雄とホット・ペッパーズ」を結成。ディック・ミネのダイナ吹込みに参加した。 1937年~1940年には大連で暮らし、1937年にはペロケ舞踏場に進出。 度々帰国しては、レコード吹込みを行った。 1944年2月、召集を受け、久留米第48部隊に衛生兵として入隊。 1946年、第1次ホットペッパーズを結成。同年に横浜の元町にオープンしたダンスホール「クリフサイド」を中心に活動を始める。 1948年、ハナ肇、市村俊幸らと第2次ホットペッパーズを再編。 1953年、突然視神経萎縮のため失明寸前になるという不幸に見舞われるが、同年8月カムバック。12月には、来日したルイ・アームストロングと共演。 1971年、亡きルイ・アームストロングを偲んでボビー・ハケット、クラーク・テリーらとトランペット・ワークショップで共演。 1973年、ジャズ生活48周年記念リサイタルを開催。 1974年、ベトナム人民支援ジャズコンサート開催。 1975年8月4日死去。享年64。 常にデキシー一筋で進んでいた南里だが、戦後の一時期バップに取り組んだこともあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南里文雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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