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南金六町[みなみきんろくちょう]
南金六町(みなみきんろくちょう)は、1872年(明治5年) - 1930年(昭和5年)3月4日に、東京府東京市京橋区にかつて存在した町丁である〔''南金六町''、goo古地図、2012年5月24日閲覧。〕。現在の東京都中央区銀座8丁目7番地から同10番地のうち、東を三原通り、西を西五番街に挟まれた部分の南半分にあたる〔。旧町名芝口金六町(しばぐちきんろくちょう)、それ以前は出雲町(いずもちょう)の南部分であった〔犬塚、p.37.〕。 == 概要 == そもそも江戸期には、東海道の起点から見て芝地域への入口に位置し、汐留川にかかる新橋(芝口橋)の両岸で「芝口」を冠した地域である〔。当時、隣接して存在した幕府拝領地「金春屋敷」をやがて併合し、同屋敷の下女たちに端を発する「金春芸者」あるいは「新橋芸者」と呼ばれる芸妓の本拠地であった。 1872年(明治5年)の銀座大火以降、銀座煉瓦街が建って近代化が進み、「日本初」の近代的建築物、店舗がこの地に登場する。「日本初のビアホール」である「恵比寿ビヤホール」が1899年(明治32年)に5番地(現在の銀座8丁目9番11号)に、「日本初の映画専門館」と「日本初の撮影所」を開いた「日本最古の映画会社」である吉沢商店は13番地(現在の銀座8丁目10番8号)に田中久重が1875年(明治8年)に9番地(現在の銀座8丁目9番15号)に開いた工場は、「東芝発祥の地」とされている。このほか、1894年(明治27年)には3番地(現在の銀座8丁目8番8号)に千疋屋フルーツパーラーが、1899年には4番地(現在の銀座8丁目8番11号)に帝国博品館勧工場が建つ。なお、「日本初のカフェー」とされるカフェー・プランタンが現在の銀座8丁目9番16号にあったが、関東大震災後に日吉町から移転してきたものである。 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災を経て、1930年(昭和5年)3月4日には、北に隣接する「出雲町」とともに「銀座八丁目」に改称し、「南金六町」の町名は消滅していくが、2012年(平成24年)5月現在、「南金六町」の時代から同地に残る店舗がいくつかある。「銀座千疋屋」は1999年(平成11年)に銀座5丁目の店舗に統合されて撤退するが、それを除いても、青柳総本店は「青柳ビル」として、帝国博品館勧工場は「博品館」として、銀座天國は建物を替えてそのままに、金春湯も同様に現在も営業している。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南金六町」の詳細全文を読む
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