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博労淵の戦い(ばくろうぶちのたたかい)は、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大坂の陣のうち、1614年(慶長19年)末に発生した大坂冬の陣において行われた戦いの一つ。 豊臣方は、木津川口砦とともに、木津川沿岸の守備のため博労淵(現在の大阪市西区立売堀付近、西長堀駅の北側)に砦を築き、薄田兼相を守将に兵700で守備させており、11月19日の木津川口砦陥落後もそのままになっていた。 これに対し徳川家康は大砲で砦を攻撃するため、水野勝成と永井直勝に命じて狗子島(木津川の中州、現在の江之子島)に仕寄(塹壕)を築かせた。仕寄は11月28日に完成し、勝成はこれを家康に報告したところ、蜂須賀至鎮の家臣がこのことを聞き付けた。蜂須賀至鎮は木津川口砦攻略後も同地に布陣していたが、水野勝成が博労淵砦を攻略する前に砦を落とそうと考え、徳川家康に「博労淵の守備兵が荻に隠れて銃撃してくるため、付近一帯の荻を刈り取らせてほしい」と願い出た(それを口実に砦を攻略しようと考えた)。 ところが、家康は石川忠総に荻の刈り取りを命じる。石川忠総は荻の刈り取った後、狗子島の南にある葦島(木津川の中州)に陣取り、博労淵砦に銃撃を加え守備兵を牽制した。このため蜂須賀至鎮は夜中のうちに木津川口に仕寄を構築し攻撃準備に取りかかった。 11月29日、石川忠総は夜明けと共に州を渡って進撃しようとしたが、ちょうど満潮時だったため渡河できなかった。石川勢は九鬼守隆から船3隻を借り受け、狗子島の北方から渡河、砦に攻撃を仕掛けた。蜂須賀勢も南方から攻撃をかけた。 守将の薄田兼相は前夜から遊女屋に泊まり込んで不在だったため、守備兵は統制が取れず、砦は陥落した。留守将の平子正貞は、葦原に逃げ潜んでいたところを池田忠雄の家臣〔ちょうど水くみに通りかかったところに戦闘に出くわし、蜂須賀勢に交じって上陸していた。池田忠雄は蜂須賀至鎮の婿。〕に見つかり討ち取られた。 薄田兼相はこの失態により「橙武者」〔橙は、「鏡餅の飾りなどに使われるが食べられない」から転じて「見てくれだけで役に立たない」の意味。〕と味方から嘲りをうけた。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「博労淵の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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