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原爆の子〜広島の少年少女のうったえ : ウィキペディア日本語版 | 原爆の子〜広島の少年少女のうったえ 『原爆の子〜広島の少年少女のうったえ』(げんばくのこ ひろしまのしょうねんしょうじょのうったえ)は、1951年10月、長田新編により岩波書店から刊行された原爆体験文集である。 ==概要== 旧制広島文理科大学(現広島大学)教授在任中、1945年8月6日広島の原爆に被爆した教育学者・長田新は、原爆が人間、特に感受性の強い少年少女の精神にどのような影響を与えたかに強い関心を持ち、被爆した少年少女の手記を集めて平和教育の研究資料とする計画を立てた。彼は学生とともに作文用紙を持参して広島市内外の小・中・高・大学、さらに似島学園などの孤児収容施設などを巡回し、校長や教師を通じ手記の執筆を依頼した。この結果、1951年4月から6月までに1,175名の手記が集められ学生により清書された。 手記の一部は岩波書店の雑誌『世界』(1951年8月号)に吉野源三郎編集長の配慮により「ヒロシマの傷跡」と題して掲載された。これをきっかけとして、選ばれた手記105篇に長田の「序」を付し同年10月岩波書店から『原爆の子』として刊行された。この本に収録された手記の執筆者の内訳は、小学生が10校42名、中学生が8校25名、高校生が10校18名、大学生(旧制大学を含む)が10校20名(いずれも執筆当時)であった。なお、本文ではないが「序」のなかで、執筆当時中学1年生だった漫画家・中沢啓治による手記の一部(原爆投下直前の様子)が引用されている(手記を寄せた子供たちの中には朝鮮人も含まれていたという証言があるが、それらは刊行された『原爆の子』には収録されていない)。 当時学生として手記の編纂に協力した沖原豊(のち広島大学学長)によれば、この体験記の意義は、それまでの原爆問題の取り上げ方に一貫していたといわれる「敗北主義的な原爆エレジーに堕して」おらず、「原爆問題は、人間の力で克服することができる」という思想を「原爆の子」らの逞しい姿の中に見いだしている点にあるとされる。
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