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原田 泰夫(はらだ やすお、1923年3月1日 - 2004年7月11日)は、将棋棋士。棋士番号35。新潟県西蒲原郡分水町(現在の燕市)出身(分水町名誉町民)。加藤治郎名誉九段門下。1961年から6年間、日本将棋連盟の会長を務めた。 == 人物 == * 10歳のころ、13世名人(関根金次郎)の立派な指導対局姿に心を打たれ、棋士を志す。原田の父は棋士になることに反対していたが、結局は高等小学校を卒業した原田とともに上京して棋士になる手助けをしている。はじめに縁のあった溝呂木光治八段を訪ねたが、自分は弟子運がよくないということで当時五段だった加藤治郎を紹介し、加藤に弟子入りすることになった。 * 将棋の初心者向け解説者として最も著名なうちの一人。常に目先を読む「三手の読み」(こうやる、こう来る、そこでこう指す)を提唱し、普及にも力を注いだ。格言も多く作っており、今日知られる格言の多くは原田によるものである。自分のことを「原田」と呼ぶ、人を呼ぶときに「やあこれは巨匠」と呼びかけるなど、独特の表現で人気があり、将棋界以外でも有名であった。今福栄は原田の人柄を「潔癖家、お洒落、破滅型でない浪費家、若者好き、柔軟な保守主義者」と評している。(『将棋プロアマ角落十番勝負』講談社刊より) *詰将棋作家としても知られており、実戦向けの作品を得意とした。 * 反面、昭和中期を代表する強豪棋士だったことは意外と知られていない。名人以外の全プロが参加する「最強者戦」で見事最強者となったこともあり、大山康晴、升田幸三に次ぐ実力を有していた。特に1973年(昭和48年)、48歳でA級に復帰して底力を見せたときには、石川達三の同名小説に準え「四十八歳の抵抗」といわれ話題になった(自分から「四十八歳の抵抗」と述べたという説もあり)。なお、升田幸三は現役最後の新聞棋戦棋聖戦で敗北したが、相手は原田泰夫であった。この将棋は原田の名局とされている。 * 「玉損の攻め」といわれるほど攻撃的な棋風で知られ、おだやかな人柄と全く相違しているため驚かれたという。 * 「自在流」(内藤國雄)、「さわやか流」(米長邦雄)、「自然流」(中原誠)、「光速流」(谷川浩司)など棋風の名付け親としても知られる。 * 30代で日本将棋連盟会長を務めた唯一の棋士であり、引退後も長きに亘り棋界の御意見番として重き為すとともに、タイトル戦の立会人や毎年恒例となっている将棋まつり、将棋の日関連イベントなどを通じて、棋界の発展に大きく寄与した。 * 俳人・書家でもあり、泰風と号した。 * 弟子に佐藤庄平、桜井昇、山口英夫、近藤正和、鈴木環那らがいる。千葉涼子は孫弟子。他にアマチュアの孫弟子として山口瞳がいる。 * 羽生善治は小学5年生のとき、引退直前の原田と二枚落ちで対戦し、善戦するも攻めを誤って敗れた。この局の棋譜は小学館入門百科シリーズ118『将棋初段への道』(1982年1月)に所収されているほか、インターネット上でも公開されている〔将棋の棋譜でーたべーす 〕。 * しゃべり好きで、パーティー等でスピーチを頼まれるといつも話が止まらなくなるほか、本人も「原田の話は長いことで有名で」と自らネタにするほどだった。そのため原田にスピーチを頼む際は「今日は誰が話を止めるか」が必ず関係者の間で話題になっていた〔『先崎学の実況!盤外戦』(講談社文庫、2006年)pp.100 - 101〕。 * 師匠である加藤治郎の盤寿(数え年で81歳)を祝うパーティーでもいつもの調子でしゃべり続けたところ、あまりの話の長さに師匠の加藤自ら「原田くん、もうそろそろにしなさい」と一喝。さしもの原田も師匠には逆らえず降壇したという〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「原田泰夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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