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原田熊雄 : ウィキペディア日本語版
原田熊雄[はらだ くまお]

原田 熊雄(はらだ くまお、1888年明治21年)1月7日 - 1946年昭和21年)2月26日)は、大正昭和期の政治家。栄典従三位勲三等『官報』 第5741号 1946年3月6日 「貴族院 議員薨去及弔辞」 男爵
== 経歴 ==
1888年明治21年)1月7日、地質学者・原田豊吉と妻・照子の長男として東京裏猿楽町に生まれる。1894年(明治27年)、父の没後、叔父・原田直次郎(1899年末に没)に引き取られた〔1899年12月28日、叔父の直次郎が天王寺に葬られたとき、竜蔵と熊雄の2児名が署せられた。また1909年7月11日、学習院の学生であった熊雄は、直次郎の遺作展を開きたいとして森鴎外を訪ねた。かつて東京美術学校で教職に従事していた鴎外が同校教授黒田清輝を発起人に巻き込み、同年11月28日(日曜日)、同校の校友会倶楽部で「原田直次郎没後十周年記念遺作展覧会」が開催された。新関公子『森鴎外と原田直次郎』東京藝術大学出版会、2008年、60-61、138-140頁。〕。
1899年(明治32年)に高師附属小学校高師附属中学校から学習院中等科六年に編入し卒業学習院高等科から京都帝国大学へと進学し、同級生の近衛文麿木戸幸一織田信恒など華族の子弟たちと交流を重ねた。この交流は、のちに「宮中革新派」と呼ばれる華族の政治的グループ(十一会)形成に見られるように、彼の政治的基盤を形作ることとなった。
1910年、祖父・一道の死去にともない襲爵。母親がハーフ(ドイツ人武器商人と日本人妻との娘)のため、クォーターである熊雄は日本最初期の混血の華族となった〔歴史読本2013年10月号〕。
大学卒業後の1916年大正5年)、日本銀行に入行するが、1922年(大正11年)に退行。宮内省嘱託としてヨーロッパを見聞した後、1924年(大正13年)から加藤高明内閣の首相秘書官を務める。
1926年(大正15年)7月、住友合資会社に入社。事務取扱嘱託の身分のまま、同年9月、元老西園寺公望の私設秘書に就任(日銀退行時から西園寺と近衛、木戸の間で話が進められていた)。政党や官僚、軍部、宮中、財閥など、政治の中枢部に絶えず接触を持って精力的に各界を飛び回り、表裏にわたるあらゆる情報を収集して西園寺に伝達、さらに「元老」西園寺の意志を各界要人へ伝達するなど、国連協調主義・親英米主義の守護につとめた。
1931年昭和6年)、貴族院議員(互選・男爵議員)に当選。
1936年(昭和11年)2月26日早朝に二・二六事件が発生した際には、東京平河町の自宅で就寝していた。6時前に木戸からの連絡で事件を知り、宮内省へ向かおうと家を出たが反乱部隊の歩哨があちこちに立っているため自宅へと戻った。原田も暗殺の標的にされているとの連絡を受け、隣家の青地家に塀を越えて避難した。翌日昼前に西園寺八郎が用意した車で公望が滞在していた興津へと向かった〔。
反乱部隊の指揮官の一人であった清原康平(湯川康平)少尉は、貴族院議員が集まり何事かを相談している華族会館を占拠しその中心人物の原田を殺害せよとの命令を栗原安秀中尉から受け取った。逮捕後の清原の手記によると、華族会館の玄関で原田をみつけたが、その態度があまりに惨めだったので軍刀で切り捨てる気にもなれず見逃したと述べている。清原は自身が死刑を免れたのは原田を助命したからだとも主張しているが、原田はこのとき既に車で興津へと向かっており清原の説明は勘違いか捏造である。
1940年(昭和15年)の西園寺没後、軍部独裁の流れに対して原田は抵抗を試みる。原田は軍部から親英米派と目されており、これより遡るが二・二六事件においても暗殺の対象とされていた。軍部が擁立する東條内閣の打倒を目標に、近衛文麿や吉田茂樺山愛輔など親英米派(重臣グループ)と共謀し、終戦工作を秘密裏に計画する。しかし計画は憲兵隊の内偵工作によって発覚。1945年(昭和20年)4月、吉田が検挙され、近衛や原田自身も取り調べを受けるなど、計画は頓挫するに至った(「ヨハンセングループ」事件)。
その後も終戦工作を模索したが、やがて脳血栓による病魔に倒れ政治活動は困難となった。終戦間もない1946年(昭和21年)2月26日、療養先である神奈川県大磯町高麗の別邸にて死去した。
1930年(昭和5年)から1940年]](昭和15年)までの間における西園寺をめぐる政局の裏面を、近衛秀麿夫人・泰子を口述筆記役に記録し、西園寺没後、里見弴に原稿整理を委託するが、軍部が同日記を危険視したため中絶(『原田日記』)。この日記は原田の没後に開催された極東国際軍事裁判(東京裁判)において証拠として採用されている。400字詰原稿用紙7,000枚に上る厖大なもので、戦後は丸山真男林茂らによって校訂され、1950年(昭和25年)6月に岩波書店より出版された(『西園寺公と政局』全8巻・別巻1)、今日まで、度々重刷している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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