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原長頼[はら ながより]
原 長頼(はら ながより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。 == 生涯 == はじめ織田信長に仕え、美濃国本巣郡花木城(中野城)主となる。天正3年(1575年)、信長から越前大野郡に2万石を与えられ、柴田勝家軍団に属し、勝山城城主となった。天正6年(1578年)に荒木村重が信長に対して反乱を起こすと、その討伐で軍功を挙げ、天正7年(1579年)には信長の命令で荒木一族の処刑を担当している。 信長没後は勝家に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは先鋒、及び敗走時には殿を務めた(『太閤記』)が、後に羽柴方に寝返った。戦後は徳山秀現と共に前田利家の組下に入り、天正12年(1584年)の能登末森城の戦いで軍功を挙げた。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の直臣として伊勢国内に3万石を与えられた。天正18年(1590年)の小田原征伐後、三河に移封された。慶長3年(1598年)、美濃太田山に移封される。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、福島高晴の伊勢長島城を兵800を率いて攻めた。石田三成に対して伊勢から尾張に侵攻しての清洲城攻めを進言し、毛利秀元は賛成したが、三成らの反対で実現しなかったという。関ヶ原の本戦にも参戦予定であったが、その途上で関ヶ原での西軍の敗報を聞いて敗走し、10月13日に自害した。享年57。 子の彦作は豊後臼杵藩主・稲葉典通に仕えたが、大坂の陣で豊臣方に加わろうとしたことが発覚し、処刑された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「原長頼」の詳細全文を読む
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