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原静枝 : ウィキペディア日本語版
原静枝[はら しずえ]

原 静枝(はら しずえ、1915年9月27日 - 1934年1月8日)は、日本の女優である〔名鑑, p.36.〕〔日外, p.405.〕〔図書, p.848.〕〔''原静枝''コトバンク、2014年4月17日閲覧。〕〔''原静枝''、''jlogos.com'', エア、2014年4月17日閲覧。〕〔''原静枝''日本映画データベース、2014年4月17日閲覧。〕〔''原静枝''、日本映画情報システム、文化庁、2014年4月17日閲覧。〕。本名は原田 静枝(はらだ しずえ)〔〔〔〔〔。サイレント映画の時代、新興キネマの女優であったが〔、京都駅跨線橋転倒事故に巻き込まれ、満18歳で事故死した〔〔〔〔〔〔。
== 人物・来歴 ==

1915年(大正4年)9月27日東京府東京市(現在の東京都)に生まれる〔〔〔〔〔。大阪府大阪市に移り、旧制・大阪市愛日尋常高等小学校(のちの大阪市立愛日小学校、1990年廃校)を卒業後、市内の旧制・相愛高等女学校(現在の相愛高等学校)に進学する〔〔〔。同校卒業後は、大阪・真砂町(現在の西天満2丁目)の堂島ビルヂングにあった堂ビル洋裁学院に進学し、洋裁を学んだ〔。
1932年(昭和7年)、前年に設立された映画会社・新興キネマに入社する〔〔〔。同年2月8日に公開された桂珠子主演のサイレント映画『ふらんす人形』(監督印南弘)でダンサーとして顔を出した後、同年10月6日に公開された同じく桂珠子主演の『太陽の娘』(監督渡辺新太郎)で正式にデビューした〔〔ふらんす人形 、日本映画データベース、2014年4月17日閲覧。〕〔太陽の娘 、日本映画データベース、2014年4月17日閲覧。〕。満17歳でのデビューであった〔。1933年(昭和8年)3月1日に公開された森静子主演の『女夫浪』(監督曾根純三)では、小島洋々演じる日頭武則の娘役を演じ、同年4月6日に公開された歌川八重子主演の『後の生さぬ仲』(監督寿々喜多呂九平)では、後妻を演じる歌川の相手役草間実の前妻役を演じる等、順調に好演を重ね「その特異なパーソナリティが開花」したと評価されていた〔〔〔。
1934年(昭和9年)1月8日京都市下京区京都駅構内で午後10時ごろ、群衆が押し寄せて将棋倒しが起こり、100人以上が下敷きとなり、77人が死亡、74人が負傷する事故が起きている。そこに居合わせた原は、同事故の犠牲者となり、同日、死去した〔〔〔〔。満18歳没。事故の前日である7日に公開された『春の目醒め』(監督村田実)が最後の出演作となった〔〔。同年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』の原の項目によれば、身長5尺(約151.5センチメートル)、体重17貫(約63.8キログラム)、京都市上京区北野白梅町に在住していた〔。
当時、ユーゴスラビアの新聞「ポリティカ」の特派員として日本に滞在していたゾルゲ諜報団の一員であるブランコ・ヴケリッチは、「ポリティカ」に連載していた「日本からの手紙」というコラムの5月6付掲載分「日本、悲劇と桜の国 最近の三大災害」で跨線橋事故を取り上げ、その中で京都に行った際に原と面識を持っていたと記している〔未知谷, p.100.〕〔「三大災害」の他の二つは友鶴事件函館大火である。〕。この記事によると、原は婚約者が海軍の徴集兵だったために現地に居合わせ、婚約者(即死)や彼女の家族二人もこの事故で亡くなったという〔。
東京国立近代美術館フィルムセンターマツダ映画社の所蔵リストによれば、出演作は、1作も現存していない〔所蔵映画フィルム検索システム 東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年4月17日閲覧。〕〔主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇 マツダ映画社、2014年4月17日閲覧。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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