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厩橋城 : ウィキペディア日本語版
前橋城[まえばしじょう]

前橋城(まえばしじょう)は、上野国群馬郡、現在の群馬県前橋市にあった日本の城。前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられた。

利根川と広瀬川を外堀とする渦郭式の平城。周囲に城下町が発展し、今日の前橋市中心街となった。前橋城は江戸時代には前橋藩の藩庁ともなったが、その一方で、暴れ川として知られ「坂東太郎」の異名を持つ利根川に始終翻弄された。
== 歴史・沿革 ==

===室町時代・安土桃山時代===
前橋はその旧名を厩橋〔厩橋の発音については、『前橋市史』(第2巻、1973、前橋市、6-15頁)によると、中世の史料で「まやばし」「マヤ橋」の表記をしており「まやばし」といったらしい。「まやばし」以前は「うまやばし」と発音し後音便変化したとする説も有力だが、史料的根拠はまだなく推定にとどまっている。〕といった。このため前橋城は当初、厩橋城と呼ばれていた。城の起源については諸説あるが、室町時代中期の15世紀末頃に長野氏の拠点であった箕輪城の支城として築かれた石倉城がその始まりであるとされる。
伝承では、石倉城築城時に低地帯を台地の東に流れていた利根川の本流が、天文3年(1534年)の氾濫により流路を変え石倉城の水路に流れ込み、本丸・二ノ丸などを崩壊させてしまった。当時の城主長野賢忠(長野方業、法号・固山宗賢)が残った三の丸を拠り所に再築した城が、後に厩橋城と呼ばれるようになったという。ただしこの厩橋長野氏の系譜ははっきりせず、厩橋の長野氏で築城者とみられる初代の人物も、法号の固山宗賢としか判明しない。学説上で明らかなのは長野氏によって築城されたことのみである。
天文20年(1551年)、厩橋城は上野国に侵攻した後北条氏に付いた。一説には城主の長野賢忠が城を明け渡し長尾景虎(後の上杉謙信)を頼りに越後へ移ったという。なお、石倉城を破壊した利根川はこの天文年間までに厩橋城の西へと流路を完全に移している。
永禄3年(1560年)、景虎の長尾軍が厩橋城を攻め取る。この際に厩橋長野氏を中心とする厩橋衆は分解した。以降、厩橋城は景虎の関東進出の足掛かりとされた。永禄6年(1563年)小田原北条・甲斐武田の連合軍により攻め落とされる。年代に諸説あるが、この時期に厩橋長野一族は上杉家の家督を継いだ景虎改め政虎に断罪され粛清された。賢忠が病気を理由に攻防戦に参陣しなかったからとも、玄忠(賢忠?)の子・彦太郎の馬が暴れたのを謀反と勘違いされたとも言われる。また上杉家の謀略だったともされる〔『関東地方の中世城館』〕。城はその後再び上杉家に取り戻され、越後の北条高広が城代に据えられた。だが永禄10年(1567年)にはその北条高広が北条陣営へ寝返ったことにより周辺は再び北条家の勢力圏となる。
その後、越相同盟によって北条高広は上杉家へ帰参することが取り決められ、厩橋城は上杉方に引き渡された。高広は謙信の死後の天正7年(1579年勝頼率いる武田方に降伏、引き続き城代として残るも、天正10年(1582年)3月に武田氏が織田信長によって滅ぼされると織田方の滝川一益に城を引き渡す。同6月の本能寺の変の後、神流川の戦い北条氏直に敗れた一益は上野国から撤退、厩橋城は後北条氏の元に入る。天正18年(1590年小田原征伐に際して豊臣方の浅野長政により攻め落とされ、同年8月、関東を任された徳川家康が家臣平岩親吉を厩橋城に置き3万3千石を与える。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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