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友成 用三(ともなり ようぞう、1893年2月10日 - 没年不明〔「友成用三」の項、岸松雄・司馬叡三、『日本映画監督全集』、キネマ旬報社、1976年、p.273-274.〕)は、日本の映画監督、脚本家、美術監督、録音技師である。衣笠貞之助監督の『十字路』で美術を手がけたときの名は平 凡二(たいら ぼんじ)。 == 人物・来歴 == 1893年(明治26年)2月10日、東京府東京市京橋区数寄屋橋(現在の東京都中央区銀座)の銀座教会に生まれる〔。弟に撮影技師の友成達雄がいる〔。 1921年(大正10年)、森岩雄とともに、高松豊次郎主宰の活動写真資料研究会に参加、助監督を務める〔。翌1922年(大正11年)には、森とともに銀座に中央映画社を設立する〔。同社は山本嘉次郎、近藤伊与吉、横田豊秋、大辻司郎、友成達雄らが設立した無名映画協会が製作した作品を配給したが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で同社の製作機能は停止した。 1925年(大正14年)、高松豊次郎がタカマツプロダクションを設立、これに参加する。1926年(大正15年)、林正夫主演の『国境の血涙』で監督としてデビューする。同作には伊沢蘭奢、三島洋子、山本嘉次郎も出演している〔国境の血涙 、日本映画データベース、2010年3月5日閲覧。〕。1927年(昭和2年)までは同社で監督を務めるが、1928年(昭和3年)、衣笠貞之助が主宰する衣笠映画聯盟に参加、「平凡二」の名で美術を手がける。同年、衣笠がヨーロッパに渡り、同聯盟は解散、製作提携をしていた松竹下加茂撮影所に残り、監督業に戻る〔友成用三、日本映画データベース、2010年3月5日閲覧。〕。 1930年(昭和5年)には、帝国キネマ演芸が、イーストフォン方式を採用したトーキー、鈴木重吉監督、関屋敏子主演の『子守歌』を製作する際に録音技師を務め、「音響」とクレジットされた〔子守歌 、日本映画データベース、2010年3月5日閲覧。〕。 服部栄養専門学校の服部幸應は孫(娘の子)に当たる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「友成用三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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