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古在 由秀(こざい よしひで、1928年4月1日 - )は、日本の天文学者〔交詢社 監修 『日本紳士録 第78版』 交詢社出版局 編集、ぎょうせい 発行、2004年4月5日、こ 436頁。〕。専門は、天体力学。最後の東京天文台長・初代国立天文台長である〔藤井旭「初代国立天文台長 古在由秀先生が文化功労者として選出 顕彰記念祝賀会が開催」『天文ガイド』2010年4月号 誠文堂新光社、26頁。〕。2016年現在、群馬県立ぐんま天文台名誉台長〔職員名簿 - 古在 由秀 〕、東京大学・総合研究大学院大学・国立天文台の各名誉教授でもある。 == 経歴 == 古在由正・澄江夫妻の長男として東京府北豊島郡巣鴨町駒込(現・東京都豊島区駒込)に生まれた〔〔『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年6月23日発行、コ73頁。〕〔新・未知への群像 古在由秀氏 1 - インターネット・アーカイブ内のページ〕〔新・未知への群像 古在由秀氏 2 - インターネット・アーカイブ内のページ〕。 1940年、東京府立第十四中学校(後の東京都立石神井中学校、現・東京都立石神井高等学校)に入学〔新・未知への群像 古在由秀氏 3 〕。1945年、旧制第一高等学校理科に入学〔新・未知への群像 古在由秀氏 4 〕。1948年、東京大学理学部天文学科に入学〔新・未知への群像 古在由秀氏 6 〕。東大理学部時代は萩原雄祐の下で天体力学を学んだ〔。また旧制一高・東大理学部を通じての級友にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊がいる〔藤井旭 著 『白河天体観測所』 誠文堂新光社、2015年10月15日発行、ISBN 978-4-416-11537-4、262頁。〕。1951年、東京大学理学部天文学科を卒業。東大大学院に進み〔新・未知への群像 古在由秀氏 7 〕、大学院で学びながら東京天文台に勤務する〔。 1952年、東京大学附属東京天文台助手に就任〔〔新・未知への群像 古在由秀氏 8 - インターネット・アーカイブ内のページ〕。1958年、学位論文「土星の衛星系にかんする研究」で理学博士号を取得。渡米してスミソニアン天体物理観測所及びハーバード大学天文台の客員研究員となった〔〔〔新・未知への群像 古在由秀氏 9 - インターネット・アーカイブ内のページ〕。1961年から『理科年表』編集に携わる。1963年、東京大学附属東京天文台助教授に就任〔。同年朝日賞を受賞〔。1965年、東京天文台附属人工衛星国内計算施設長に就任〔。1966年、東京大学附属東京天文台教授に就任〔。1973年、東京天文台附属堂平観測所長に就任〔。1979年6月11日、土星衛星、人工衛星及び小惑星の運動の研究により日本学士院賞及び恩賜賞を受賞〔〔。1980年、日本学士院会員となる。 1981年、東京大学附属東京天文台長に就任〔〔新・未知への群像 古在由秀氏 14 - インターネット・アーカイブ内のページ〕。1988年7月東京天文台は緯度観測所・名古屋大学空電研究所第三部門と統合され国立天文台となったため〔歴史 - 国立天文台 〕、古在はそのまま初代国立天文台長に就任した。1988年8月、日本人で初めて国際天文学連合 (IAU) 会長に就任〔。1991年、国際天文学連合を辞任し、1994年、国立天文台長も辞任した〔。 1997年、群馬県立ぐんま天文台の台長に就任〔。2002年、秋の叙勲で勲二等瑞宝章を受章〔〔。2009年、文化功労者に選ばれた〔〔。2010年、三鷹市名誉市民に選ばれた〔初代国立天文台長古在由秀氏が三鷹市名誉市民に! - 国立天文台・天文情報センター・アーカイブ室新聞 第357号(PDFファイル)〕。2012年、群馬県立ぐんま天文台名誉台長となった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古在由秀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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