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古河機械金属株式会社(ふるかわきかいきんぞく、、旧社名:古河鉱業)は、東京都千代田区丸の内2丁目に本社を置く非鉄金属・産業機械の大手メーカーである。また、東京日本橋の大型複合施設・コレド室町2(室町古河三井ビルディング、地上22階・地下4階・高さ116メートルの超高層ビル)の開発に参画するなど、メーカーでありながら不動産事業も行なっている。 創業は明治8年(1875年)で、創業者は古河市兵衛。古河電気工業、富士電機、富士通とともに「古河グループ(古河三水会)」の中核企業であり、旧・古河財閥の源流企業にして古河電工などの母体企業でもある。明治10年に足尾銅山の開発に着手、これが日本の銅産出量トップとなる(明治17年)など大鉱山に成長したことで古河財閥の礎を築く。その後、古河潤吉(2代目社長)・古河虎之助(3代・5代目社長)の下、足尾銅山を基盤に事業の近代化・企業の多角化を推進し、鉱山開発(古河機械金属)→電線製造(古河電工)→電気機器製造(富士電機)→通信機器製造(富士通)などと裾野を広げ、古河グループ各社が古河機械金属から様々な産業へと分社・独立していった(富士電機や富士通の「富士」は、古河の頭文字「ふ」とドイツ社シーメンスの「じ」に由来する)。また、急成長の過程で公害問題に直面したもののこれを克服し、近代日本産業の発展に大きく貢献した。 第二次世界大戦敗戦後の1946年(昭和21年)、持株会社整理委員会による指定(財閥解体)を受け古河財閥の持株会社としての機能を喪失、更に同年、岡田完二郎社長(のち富士通社長)や吉村萬治郎元社長、名取和作らがGHQの公職追放令に基づく追放指定(公職追放)を受けて重職を辞任させられるなど、終戦を境に再出発を図ることになった。1989年(平成元年)には「古河鉱業」から現社名に社名変更。元々は鉱業より発祥した企業であるが、石炭事業からの撤退や足尾銅山の閉山などを経て事業の多角化に成功し、現在では削岩機などの土木鉱山用機械のトップメーカーとして広く知られる。2005年、事業持株会社体制(事業持株会社である古河機械金属を中心に、子会社46社・関連会社17社で構成)へ移行した。東証1部に上場(日経225銘柄の1つ)、足尾銅山鉱毒事件の原因企業としても著名。 == 会社概要 == 車両搭載型クレーン「ユニック」やトンネル掘削に多くの実績を持つトンネルドリルジャンボ(削岩機)などの土木鉱山用機械と銅の製錬を事業のメインとする日本の大手メーカー。削岩機は国内シェア首位(国内シェア90%)、ガリウムヒ素半導体の材料として使用される高純度金属ヒ素は国内唯一の製造メーカーであり世界シェア首位(世界シェア60%、国内シェア75%)である。古河機械金属のルーツは銅山経営(鉱業)にあるが、ここで培われた鉱山技術(鉱石の採掘、銅の製錬、鉱石の運搬、給排水、水処理、副産物の処理、動力源としての発電所建設など)が今日の高度な技術力・高い世界シェアを有する製品(鉱山やトンネルで使用する削岩機、泥水を排水するポンプ、排ガス処理技術、銅の副産物である濃硫酸や希少金属の生産など)の源泉となっている。 東京証券取引所市場第一部に上場しており、日経平均株価を算出する際に使用される日経225銘柄(東証一部に上場する約1700銘柄の株式のうちの主要な225銘柄)の1つである。 古河財閥(現・古河グループ)の各社は、そのほぼ全てが古河鉱業(現・古河機械金属)の一部門としてスタートしている。例えば、古河電気工業は古河鉱業から分離独立した(本所鎔銅所、横浜電線製造、日光電気精銅所の3社が合併)(古河鉱業から見れば子会社)。富士電機製造(現・富士電機)は古河電工とドイツ社シーメンスの合弁で設立された(古河鉱業から見れば孫会社)。富士通信機製造(現・富士通)は富士電機から分離独立した(古河鉱業から見れば曾孫会社)。富士通ファナック(現・ファナック)は富士通から分離独立した(古河鉱業から見れば玄孫会社)。また、横濱護謨製造(現・横浜ゴム)は、古河とアメリカ社グッドリッチの提携により設立。旭電化工業(現・ADEKA)は、古河と桂川電力(現・東京電力)、東京電気(現・東芝)の3社により設立。日本ゼオンは、古河とアメリカ社グッドリッチ・ケミカルの提携により設立。日本軽金属は、古河と東京電燈(現・東京電力)により設立。帝国生命保険(現・朝日生命保険)は、古河が株式の過半数を買い入れ経営権を取得した。以上のような経緯から、古河機械金属は現在も古河グループ(古河三水会)の資料では筆頭に名を連ねている。また、古河機械金属の英文社名が「FURUKAWA MACHINERY & METAL CO.,LTD.」などではなく「FURUKAWA CO.,LTD.」であるのも、こうした歴史的背景からである。 1875年(明治8年)、創業者・古河市兵衛が草倉銅山(新潟県)を譲り受け、「古河本店」として経営を開始。1877年(明治10年)には足尾銅山(栃木県)を譲り受け、この足尾銅山の発展を基盤とし様々な産業へと多様化の道を歩み始めた。1905年(明治38年)に個人経営から会社組織に変更し「古河鉱業会社」となり、1911年(明治44年)に「古河合名会社」に組織を変更、1918年(大正7年)には古河合名会社の鉱業部門を独立して「古河鉱業株式会社」を設立、更に1941年(昭和16年)に古河合名会社と古河鉱業株式会社が合併し「古河鉱業株式会社」として現在の形態の基礎が完成された。第2次世界大戦敗戦後の1946年(昭和21年)、持株会社整理委員会による指定(財閥解体)を受け古河財閥の持株会社としての機能を喪失、くわえて岡田完二郎社長がGHQの公職追放令に基づく追放指定を受け社長を辞任するなど、終戦をさかいに再出発を図ることとなった。1989年(平成元年)、社名を「古河鉱業株式会社」から「古河機械金属株式会社」に変更、現在に至る。 2005年(平成17年)、機械セグメント・金属セグメント・電子化成品セグメントを会社分割により分社化し、事業持株会社である古河機械金属(株)を中心とした「古河機械金属グループ」としての経営体制に移行。2009年(平成21年)にはM&Aによって塗料事業が新たに加わった(2013年売却)。現在では、機械・金属・電子化成品・不動産・その他(運送業など)の4セグメント、産業機械・開発機械・ユニック・金属・電子材料・化成品・不動産・その他(運送業など)の8事業を主とした企業活動を行っている。 また、日本の公害の原点ともいわれる足尾鉱毒事件(栃木県・群馬県の渡良瀬川周辺で発生した足尾銅山の公害事件)は、古河鉱業(現・古河機械金属)が原因企業であり、このことは、多くの教科書にも取り上げられているため広く知られているが、今日、古河機械金属はその原因企業として、環境保全技術の開発や積極的な自然再生事業など、前向きな環境保全活動を行っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古河機械金属」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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