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古瀬戸様式[こせと]
古瀬戸(こせと)ないし古瀬戸様式(-ようしき)とは、平安時代末から室町時代中期まで現在の愛知県尾張地方の瀬戸市周辺で生産された陶器類やその様式をいう。 == 概要 == 考古学上、井上喜久男の考える編年〔楢崎彰一『日本の陶磁・古代中世編2』中央公論社,1975年を踏襲しつつ、大窯期を除く4期を窖窯(あながま)I - IV期とした。井上1992など。〕論と藤澤良祐の考える編年論があったが、現在は、藤澤の編年の枠組みが普及して用いられるようになっている〔1996年に実施された(財)瀬戸市埋文センター設立5周年記念シンポジウム『古瀬戸をめぐる中世陶器の世界』が契機になっているとおもわれる。〕。 井上の編年は、11世紀末葉から12世紀後葉の猿投窯の瀬戸地区と東山地区の山茶碗、山皿、片口鉢などの無釉陶器生産と瓦の生産をおこなっていた時期をI期とし、12世紀末から13世紀末をII期、13世紀末から14世紀末をIII期、14世紀末から15世紀までをIV期とし、15世紀末から大窯期がはじまるとする。それぞれ前半と後半でa期、b期に細分している。一方、藤澤の考える編年は、灰釉四耳壷の出現に象徴される瀬戸の施釉陶器窯としての成立を12世紀末において前期様式の開始とし、13世紀末からはじまる鉄釉の出現を中期様式、14世紀後半から15世紀末までを後期様式とし、それぞれを4期に細分している。 15世紀末に窯体が窖窯〔「あながま」と読む。通常「あな窯」と呼ばれ、しばしば「穴窯」とも表記されることがあるが、考古学で連房式登窯や龍窯以外の斜面を利用した単室の窯をこの表記で呼ぶ。特に須恵器を焼成する窯であることを強調する場合は、須恵器窯と呼ぶ。登り窯も参照。〕から大窯に変化するとともに天目茶碗、擂鉢、端反皿及び丸皿に器種が絞られるまでの約300年間を古瀬戸様式の時代と位置付ける。古瀬戸様式は大きく灰釉のみが用いられた時期を前期、鉄釉の使用が始まり、画花文や印花文などの本格的な文様が付けられた時期を中期、日用品が量産される時期を後期と位置付ける。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古瀬戸様式」の詳細全文を読む
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