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古角 俊郎(こすみ としろう、1921年7月19日-2013年1月8日〔嶋投手の同僚、古角俊郎氏が死去 旧制海草中の中堅手 - 47News(共同通信)2013年1月9日 〕)は、日本の高校野球指導者。和歌山県立新宮高等学校硬式野球部元監督、明治大学硬式野球部OB会の駿台倶楽部顧問を務めた。 和歌山県立海草中学校を経て明治大学を卒業。海草中学在学中の1939年には、第25回全国中等学校優勝野球大会で全国優勝を果たした。指導者としては、巨人と阪神の間で争奪戦となった左腕投手・前岡勤也を育てたことでも知られる。新宮高校で指導を受けた者からは古角御大と呼ばれる〔田中弘倫、2005年、5ページ。「部員は古角監督と言わずに『御大』と呼んでいた」とある。著者は古角の指導を受けた人物。著者の1級下の前岡勤也が195 - 198ページで古角のことを述べる談話では、冒頭を含めて都合6回「御大」と述べ、「監督」と呼称したのは2回。〕。 == 甲子園大会優勝まで == 古角は現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(当時は勝浦町)で、旅館「なぎさや」を営む古角俊一の長男(他に弟が3人)として生まれた。古角俊一は、のちに勝浦町の町長を務めている。 古角は勝浦尋常小学校3年から野球を始め、当初は三塁手兼投手であった。和歌山県立新宮中学校に入学したものの、野球の強い和歌山市の中学に移りたいと考えていた。この時、「なぎさや」に逗留していた化粧品セールスマンが海草中学に伝手があり、これを通じて海草中の門を叩くことになった。1936年に新宮中学から海草中学に転校。和歌山県の南部は鉄道の敷設がかなり遅れた地域であり〔紀勢本線が和歌山から紀伊勝浦までつながったのは、古角が明治大学に進学した1940年である。〕、勝浦港から大阪商船の那智丸で8時間かけ、和歌浦港に深夜2時に到着。和歌山市での寄宿先となる丸山家に向かった。丸山家は紀州徳川家御典医の流れで、当代も医師であった。海草中に転校した古角は、チームメイトとなる嶋清一と同級になり、優勝時のメンバー・真田重蔵も1938年に入学してくる。 古角が転校した時の海草中は、監督が長谷川信義(京都第二中学校~明治大学)に交代したばかりであった。これは長谷川の先々代監督の谷澤梅雄が明治大学卒で、その指示からであったという。古角は転校翌年の1937年、正中堅手兼三塁手の座を摑む。1938年に長谷川が応召、明治大学野球部監督となっていた谷澤梅雄の推薦で、明治大学在学中の杉浦清(中京商業~明治大学)が臨時監督となった〔山本暢俊、2007年、44ページ。これは海草中が1937年夏・1938年春と2度続けて甲子園で中京商業に敗退したことで、中京商業の野球を知る指導者を海草中野球部が欲したこともその理由であった。また、「臨時」であったのは、当時杉浦が在学中で和歌山に常駐できなかったためである。〕。 迎えた最終学年の1939年の第25回大会で、嶋清一の5試合連続完封、うち準決勝、決勝を連続ノーヒットノーランするという活躍もあり、優勝を果たした。古角は一番・中堅のリードオフマンであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古角俊郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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