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古賀 茂明(こが しげあき、1955年(昭和30年)8月26日 - )は、日本の元通産(経産)官僚である。フォーラム4代表。古賀茂明政策ラボ代表、元大阪府市統合本部特別顧問。元安倍晋三政策ブレーン。元橋下徹政策ブレーン。元細川護熙都知事選挙幹部スタッフ。日本の新自由主義者。 == 来歴 == 長崎県佐世保市生まれ。その後東京に移り、麻布中学校・高等学校卒業〔古賀茂明「原発震災を防げなかった本当の理由とは」ビデオニュース・ドットコム2011年6月18日 〕。高校の同期生に湯浅卓、大西洋がいる。東京大学教養学部文科1類を経て東京大学法学部に進学〔古賀茂明『官僚の責任』PHP新書。〕するが2年留年。1980年(昭和55年)、東大法学部を卒業し、通商産業省(現経済産業省)に入省。〔古賀茂明『官僚の責任』PHP新書。〕。同期入省に西山英彦、石黒憲彦(経済産業審議官)、立岡恒良(経済産業事務次官)が、1期上に維新の党の江田憲司などがいる。 外務省在プレトリア日本国総領事館領事などを経て、通産省や後継の経産省では大臣官房会計課法令審査委員、経済産業政策局経済産業政策課長を歴任する。2005年(平成17年)に外局の中小企業庁部長、その後中小企業基盤整備機構出向となった。 2006年(平成18年)には大腸癌の手術を受け抗がん剤の投与を受けるようになる。 2007年(平成19年)には茨城県つくば市にある独立行政法人の産業技術総合研究所に異動。 2008年(平成20年)、内閣官房に設置された国家公務員制度改革推進本部事務局審議官に就任。渡辺喜美行政改革担当相の下で「年功序列人事の廃止」「天下り規制の強化」「事務次官廃止」などの新自由主義政策である公務員制度改革に取り組んだ。 2009年(平成21年)12月、経済産業省の「経済産業省大臣官房付」に異動。この間、マスコミを通じて政府の公務員制度改革案を批判することで広く名を知られるようになった。後に古賀は、安倍晋三や橋下徹の政策ブレーン、細川元首相の選挙参謀などを歴任したが、ことごとく決裂している。 2011年(平成23年)6月、7月15日までに辞職届を提出するよう海江田万里経済産業大臣及び松永和夫経済産業事務次官から通達されるが、これに応じなかった。同年7月には事実上の退職勧奨である民間出向の打診も受けたがこれも拒否した。しかし、枝野幸男経産相の就任後に同省の立岡恒良官房長から「枝野大臣は辞める手続きを進めてくれと言っている」と連絡があったため、9月26日付で辞職することを明らかにした。ところが枝野経産相は「私が直接対応すべき事務次官級幹部官僚人事ではない。事務次官以下に任せる」との発言があったため、古賀は「これは民主党が提言した党主導で行う官僚人事のひとつであり、官僚である事務次官以下で決めるのはおかしい。辞表を撤回して再度(枝野に)大臣としての判断を求める」としていたが〔宙に浮く「改革派官僚」古賀茂明氏の処遇、民主党はなぜ異能の人材を登用しないのか| nikkei BPnet 〈日経BPネット〉 〕、経産省の官房長から退職を促されたために〔“インチキ民主の犠牲者”古賀茂明氏が辞表提出! - 政治・社会 - ZAKZAK 〕9月22日、同月26日付で辞職する内容の辞表を提出した。 官僚や体制についての著書も執筆し、2011年の年間ベストセラー総合書籍ランキング(オリコン調べ、集計期間2010年12月 - 2011年11月)では、「官僚の責任」(2011年7月出版)が約29万部売れ19位に、「日本中枢の崩壊」(同年5月出版)が約26万部売れ26位にランクインしている〔日本経済新聞 2012/2/20 7:00 〕。古賀は後に当時のことを「僕のときは全然、前例がなくて、役所の中で実名でめちゃくちゃ告発を始めたときに、向こうはこいつと思って、いろいろ封じ込めようと思ったんでしょうけれど、僕が常に彼らの想定外のことをやり続けて、どんどん向こうが墓穴を掘ってたって感じでしたね。『日本中枢の崩壊』も事前に秘書課と広報室に出したんですよ、それで内容を検閲してくださいって言った。ところが2週間ぐらいじっと時間がたっても、何も文句を言ってこれない。」と語っている〔〕。 2014年東京都知事選挙に「脱原発」を主張する細川護熙のスタッフとして参加した〔古賀茂明「日本再生に挑む」官々愕々 成長戦略としての「原発即ゼロ」〕が、細川は3位で落選した。細川陣営とは、後に決裂している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古賀茂明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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