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臺実験(うてなじっけん)は、1950年頃、東京都立松沢病院において発生した人体実験事件。精神科医の臺弘(後の東京大学教授)の指揮の下、精神外科医の廣瀬貞雄(後の日本医科大学名誉教授〔日本医科大学関係者による追悼文 -昭和35年(1960年)に日本医科大に来たとある。〕)が、精神外科手術に便乗して、約80人の患者から無断で生検用の脳組織を切除した。 ロボトミー後に機能を停止すると予測された部分から組織採取を行った。つまり、実際の手術の手順は、組織採取が先で、ロボトミーが後である〔高杉『日本の人体実験』88ページ〕。 その約20年後に石川清(当時東大講師)が当件を告発したことから、東大や日本精神神経学会を巻き込んた論争が起こった。 ==経緯== *石川が1971年3月27日、日本精神神経学会にて臺を告発し、朝日新聞にもその件が報じられた。臺が廣瀬に頼んで切除させたのはロボトミー手術によって機能を停止するはずの部分であるから、自分の生検用の切除は新たな害を患者に付け加えない、という臺側の主張が新聞に掲載された〔高杉(1973)第三章 p. 77 - 137〕。 *1972年6月13日、大阪西区の厚生年金会館ホールで開催された同学会にて、石川がスライドを用いて報告を行った。実験対象となった者の平均年齢は31歳で、その中には19歳の少年や11歳の少女もいた〔。 *石川の告発を受けて、同学会理事会が「石川清氏よりの台氏批判問題委員会」を設立。小池清廉委員長の報告によると、臺の受け持ち患者に関しては家族の同意を得たが他の医師の受け持ち患者の家族からは同意を得ず、また患者本人の同意は得られていなかった〔。 *名古屋で開かれた日本精神神経学会において、当時松沢病院院長だった吉田哲雄が、同院内の正規の置き場ではない棚で発見された二つのカルテを1973年4月29日に示して、臺の件と同じ手法で行った脳切除後に死亡者が出たことを証明した。その後の票決では、臺実験批判の票数が優勢だった〔。 *金子嗣郎は『松沢病院外史』においてこの告発騒動を「精医連側が臺のあら探しをするという次元の低いものであった」と、告発者側を批判した〔金子(1982)p. 248 - 260〕〔橳島(2012)第二章 p. 100〕。 *石川の告発後に臺擁護に回ったのは、新医協、民医連などに属する日本共産党系の医師が多かったことが、高杉晋吾や小沢勲によって指摘された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「臺実験」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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