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台湾沖航空戦(たいわんおきこうくうせん、1944年10月12日 - 10月16日)は、太平洋戦争における戦闘のひとつ。捷号作戦の準備中に、台湾から沖縄にかけての航空基地を攻撃したアメリカ海軍空母機動部隊を、日本軍の基地航空部隊が迎撃した。アメリカ軍の損害は軽微であったが、日本軍は戦果を誤認したまま大本営発表を行った。 == 経過 == === 背景 === マリアナ沖海戦に勝利を収めたアメリカ軍は絶対国防圏を突破し、強力な米機動部隊によるさらなる侵攻が予期された。日本軍は捷号作戦を企図して、その迎撃の準備を進めていた。そのため、主力として期待された第二航空艦隊は充実されていた。中でも第六基地航空部隊のT攻撃部隊は、捷号作戦における夜間、天候不良に乗ずる攻撃の基幹として対機動部隊戦法の中核として期待されていた〔戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 307-309頁〕。 1944年7月23日の図上演習で軍令部から、荒天により発着困難な昼間の攻撃を本旨として、機会がない場合は敵の活動が不十分な夜間に攻撃するT攻撃部隊案が出たが〔戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 290頁、戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで309-310頁〕、 一方で指揮権を持つ第二航空艦隊からは、飛行集団区分を任務別に定めて、T攻撃部隊による夜間攻撃を中核とし、昼間攻撃、薄暮攻撃の三者を攻撃部署として各種組み合わせによって第1から第4まで定め、状況に応じてそのいずれかを適用する戦法が示された。これは後日、第六基地航空部隊が規定した戦策に発展した〔戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで209-210頁〕。また、1944年9月上旬、T攻撃の成立を疑問視していた第2航空艦隊司令長官福留繁中将は、T攻撃部隊は決戦の一撃に夜間攻撃に使用し、悪天候下に乗じるのは最後の切り札として決行すると表明した。連合艦隊司令長官豊田副武は部隊用法については第二航空艦隊司令長官たる福留に一任し、不能の時は無理をすることはないと話した〔戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで321頁〕。 こうして台湾沖航空戦では軍令部が提案した「T攻撃」が実施されることはなく、二航艦が図上演習で示した戦法が実施された。実際の台湾沖航空戦でも作戦実施過程は、作戦指導、報告戦果、損害など二航艦の図上演習と類似した内容となった。異なる点は、図上演習では我が索敵線の先端(600海里)で敵機動部隊を発見し、動静を把握して待つ態勢だったが、台湾沖航空戦では来襲を予期して哨戒を強化していたにもかかわらず、米機動部隊の奇襲空襲を受けて、その後も容易にその所在を突き止められなかった点であった〔戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで209-210頁〕。 アメリカ軍はマリアナ諸島の占領に成功し、次の攻略目標をフィリピン奪還に定め、その進攻計画として最終的にキングII作戦を実行した。アメリカ軍の最初の上陸予定地点はレイテ島であったが、同作戦は幾つかの段階に分かれ、上陸作戦に先立って周辺空域の制空権・制海権を確保するため、アメリカ海軍空母機動部隊は沖縄・台湾・フィリピン北部にかけて点在していた日本軍の航空基地を空爆した。10月5日に第3艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼーが太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツから受けた命令は「台湾の軍事施設と港湾施設へ恒久的損傷を与えよ」というものであった〔カール・ソルバーグ『決断と異議』P94〕。 1944年10月10日、アメリカ軍第38任務部隊が沖縄本島並びに周辺の島々の日本軍拠点に対して航空攻撃を行った。このときの空襲は沖縄本島では十・十空襲として記録されている。翌10月11日、アメリカ艦隊は南下してフィリピン諸島を攻撃した。 捷号作戦に備えていた第二航空艦隊長官福留繁中将はその発動前に攻撃を決めて、11日早朝の索敵で正午に機動部隊を発見すると、18時30分に12日の作戦要領を発令した。T攻撃部隊に対しては「別令に依り黎明以後、沖縄方面に進出し台湾東方海面の敵に対し薄暮攻撃及び夜間攻撃を行う」と意図を明らかにした〔戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで620頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「台湾沖航空戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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