翻訳と辞書
Words near each other
・ 台湾緑党
・ 台湾美術展覧会
・ 台湾聖公会
・ 台湾職業棒球大聯盟
・ 台湾職業棒球大連盟
・ 台湾自警村
・ 台湾舞曲
・ 台湾茶
・ 台湾華語
・ 台湾虎航
台湾行啓
・ 台湾行政区人口順位表
・ 台湾製糖
・ 台湾製糖株式会社
・ 台湾観光協会
・ 台湾観光学院
・ 台湾角川
・ 台湾角川ライトノベル&イラスト大賞
・ 台湾角川ライトノベル大賞
・ 台湾角川書店


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

台湾行啓 : ウィキペディア日本語版
台湾行啓[たいわんぎょうけい]
台湾行啓(たいわんぎょうけい)とは、1923年大正12年)4月、日本統治下の台湾への当時の皇太子(後の昭和天皇)による訪問(行啓)である〔岩波講座「近代日本と植民地(第2巻)帝国統治の構造」所収、若林正丈「一九ニ三年東宮台湾行啓と『内地延長主義』」〕。

== 背景 ==
第一次世界大戦期(1914年~1918年)、米国大統領ウィルソン民族自決主義を提唱し、戦争の終結とともに多くの植民地は次々と独立を獲得した。民族自決・民主主義の流れは日本の植民地地域にも及んだ〔周婉窈著/濱島敦俊監訳「図説台湾の歴史(増補版)」平凡社(2013年)146ページ〕。植民地自治の要求である「台湾議会設置請願運動」が開始された。日本国内にあっては「大正デモクラシー」が進展し、さらには朝鮮三・一独立運動がこれまでの軍部主導の「特別統治」=「憲兵政治」の破綻を明らかにした。このため朝鮮総督府・台湾総督府官制の改革がされ、総督の武官専任の制限が外された。首相の原敬は、日本本土(内地)と同様の制度を植民地である台湾に適用するという主張「内地延長主義」に基づく政策を展開させようとしていた。まず1919年(大正8年)10月29日、最初の文官総督となる田健治郎が台湾総督に就任していた〔岩波講座「近代日本と植民地(第6巻)抵抗と屈従」所収、若林正丈「台湾議会設置運動」〕。田総督も、「内台融合」や「一視同仁」などの方針を唱え、これに基づき、1920年(大正9年)地方制度の改革を実施し、州、市、街、庄の官選議会を創設した。翌1921年(大正10年)2月台湾総督府評議会を設置した。さらに1922年(大正11年)1月には、「三一法」(「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」明治40年第31号法律のこと。台湾総督に法律と同等の効力を有する律令の制定権限を与えていた「六三法」を引き継ぐもの。)を「法三号」(「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律」大正10年法第3号)に改め、原則的に日本の法律を台湾に適用するとした。この他にも、台湾人官吏特別任用令を公布し、台湾人と日本人(内地人)の共学を許し(内台共学)、台湾人と日本人との結婚も認められた(内台共婚)〔「台湾史小事典」中国書店(福岡)(2007年) 監修/呉密察・日本語版編訳/横澤泰夫 178ページ〕。原首相と田台湾総督は、自らによる「内地延長主義」により手直しされた台湾統治体制の諸改革を権威づける総仕上げとして、台湾行啓を実行した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「台湾行啓」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.