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叱列平[しつれつ へい] 叱列平(しつれつ へい、504年 - 554年)は、中国の東魏・北斉の軍人。字は殺鬼。本貫は代郡西部。 == 経歴 == 代々にわたって酋帥をつとめた家柄に生まれた。容貌にすぐれ、ひげが美しく、騎射を得意とした。第一領民酋長・臨江伯の位を継いだ。523年、破六韓抜陵が乱を起こし、柔然の残党が馬邑に侵入すると、叱列平は軍を率いて、戦功を挙げ、別将に任ぜられた。後に牧子の乱が起こり、劉胡崙・斛律可那律らが叛くと、叱列平は都督となって、劉胡崙らを討ち平げた。528年、武衛将軍に任ぜられた。爾朱栄に従って葛栄を破り、元顥を平定し、中軍都督・右衛将軍に転じ、廮陶県伯に封ぜられた。530年、爾朱栄が死ぬと、叱列平は爾朱栄の妻や爾朱世隆らとともに北に逃れた。長広王元曄が即位すると、右衛将軍に任ぜられ、京畿大都督を加えられた。 531年、高歓が信都で起兵すると、叱列平は高歓に帰順した。532年、鄴に対する攻撃に従い、韓陵で爾朱氏を討った。爾朱仲遠が敗走すると、叱列平は東郡大行台となった。爾朱兆を討ち、また婁昭の下で樊子鵠を平定した。使持節・華州刺史に任ぜられた。543年、高仲密が乱を起こすと、叱列平は高歓の下で邙山に戦い、宇文泰を破った。廓州刺史に任ぜられた。547年、儀同三司の位を加えられ、河陽に駐屯した。550年、爵位を侯に進めた。北斉が建てられると、兗州刺史に任ぜられ、間もなく開府を加えられ、臨洮県子の別封を受けた。552年、諸将とともに南征し、陽平郡を落とした。陳軍が広陵を包囲したが、叱列平は河南の諸軍を率いて救援に赴き、陳軍が撤退したので、帰還した。554年夏、51歳で兗州に死去した。瀛滄幽三州軍事・瀛州刺史・中書監の位を追贈され、諡を荘恵といった。子の叱列孝中が後を嗣いだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「叱列平」の詳細全文を読む
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