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近藤 篤山(こんどう とくざん、明和3年11月9日(1766年12月10日) - 弘化3年2月26日(1846年3月23日))は江戸時代の朱子学者。名は春崧(しゅんすう)。字(あざな)は駿甫。別号に竹馬など。 伊予国出身で尾藤二洲に学び、のちに伊予小松藩に招かれて藩士・領民の教育にあたった。同時代において「徳行天下第一」とも評された教育者で、「伊予聖人」とも尊称された。 == 生涯 == 明和3年(1766年)、伊予国宇摩郡小林村(現・愛媛県四国中央市)に生まれる。父は高橋甚内、通称は大八。幼少期に家産が傾き、別子銅山の銅山役人となった父とともに別子山に移ったりするなど、貧困の中で苦学力行した。 天明8年(1788年)、弟(三品容斎)とともに大坂に出、同郷(宇摩郡川之江出身)の尾藤二洲より儒学を学んだ〔。二洲は寛政3年(1791年)に幕府儒官となって江戸に移り、篤山は一時期大坂で私塾を開いている〔。寛政6年(1794年)、篤山は昌平黌に入門し、再び二洲の教えを受けた。寛政9年(1797年)、江戸での修学を終えて別子山に帰り〔、翌寛政10年(1798年)に伊予国川之江で私塾を開いた。 享和3年(1803年)、伊予国小松藩に招かれて儒官となる。篤山はその前年に開設された藩校を昌平黌にならって整備し、養正館と改称する。養正館では藩士のみならず領民にも門戸を開いた。篤山はこのほか自邸内に私塾として「挹蒼亭」(ゆうそうてい)を設け、また他藩の人のための施設「緑竹舎」(りょくちくしゃ)を設けた。 小松において約40年にわたり教育に尽くした篤山は当時名を知られた教育者であった。佐久間象山は書簡の中で篤山を「徳行天下第一」と評しており、自らが江戸に開設した私塾「象山書院」の額の揮毫を篤山に請うている。 天保13年(1842年)に隠居がゆるされているが、40年以上の教育・徳行に対し、幕府より表彰されている。弘化3年(1846年)、81歳で没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「近藤篤山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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